168時間の奇跡第35回
「やっぱり......」
隣で華が、顔を強張らせていた。
五坪ほどのスクエアな空間には、コンテナのようにケージが並べてあった。
縦一メートル、横五十センチほどの長方形のケージが三個ずつ三列......合計九個並べてあり、中にはフロアの子犬より一回り以上身体の大きな子犬達が窮屈そうに入っていた。
ケージの上には犬種、性別、生齢の書き込まれたラベルが貼ってあり、扉には給水器が設置されていた。
ケージ内の、空のステンレスボウルも目に留まった。
パッと見渡しただけでも世話が行き届き、衛生的にも問題はなさそうだった。
エアコンはつけっぱなしで、犬達にとって快適な室温が保たれていた。
「毎日、世話にきているようだね」
涼也は、すべてのケージの給水器の水が半分以上残っているのを見て見当をつけた。
「ということは、今日もチェックに訪れるってことね」
華が厳しい表情で言った。
「とりあえず、容態チェックしよう。僕は奥から」
涼也は言いながら、部屋の奥に進み腰を屈めた。
天井には予想通り防犯カメラがあったが、涼也は構わずに生後五ヵ月、雄のミニチュアシュナウザーのケージを開けた。
ペットショップの売れ残りだから、名前はついていないのだろう。
ミニチュアシュナウザーは、上目遣いで涼也を見上げたままケージから出てくる気配はなかった。
このミニチュアシュナウザーの様子を見ていると、世話をしている人物は子犬達のためではなく、売り渡す大学病院にたいして体裁をつくろっていることが窺える。
「大丈夫だよ。僕達は味方だからね」
優しく声をかけながら、涼也はそっとミニチュアシュナウザーに手を伸ばした。
ゆっくりとケージから出し、抱っこしたまま手早く白目、下瞼の裏、歯茎の色をチェックし、身体を触診した。
健康状態に異常はなさそうだった。
ただ、ストレスが溜まっているのだろう、毛艶はよくなかった。
餌や水の交換はして貰っても、散歩には出ていないのは腰と大腿部の筋肉の付きかたでわかった。
「すぐに広いところに出してあげるから、もう少し我慢してね」
涼也はミニチュアシュナウザーをケージに戻し、隣......生後六ヵ月の雌のトイプードルの扉を開けた。
やはり、ケージの奥に座ったまま出てこようとはしなかった。
「おいで、怖くないよ」
涼也はプレッシャーを与えないためにトイプードルの視界から外れ、優しく呼びかけた。
「ポメちゃん、狭いところに閉じ込められてかわいそうだね。もう少し待ってね」
華はポメラニアンを抱き上げ、容態をチェックしていた。
涼也は、トイプードルが出てくるのを根気よく待った。
ミニチュアシュナウザーより一ヵ月歳を重ねているということは、一ヵ月長くこの環境に閉じ込められていたということを意味する。
冷房が利いた部屋で、水も餌も与えられ、トイレマットの交換もして貰う環境は恵まれている......と思う人もいるのかもしれない。
だが、同じ条件で人間が狭い檻に閉じ込められていたら、数日で正気を失うに違いない。
トイプードルが、恐る恐るケージの外に顔を覗かせた。
「いい子だね~。その調子、その調子......いいぞ」
涼也は、刺激しないようにトイプードルに声をかけた。
華は既に三つ目のケージの柴犬を抱き上げ、身体の隅々まで触診していた。
トイプードルの身体が完全にケージから出てきたところで、涼也は抱き寄せた。
「頑張ったな。よしよし、えらい、えらい」
涼也は、トイプードルの背中を撫でつつミニチュアシュナウザーと同じように素早くチェックした。
「この部屋に売れ残った子犬がいるかもしれないと思っていたけど、ここまできちんと世話をしているとは意外だったわ」
「ペットショップで犬を販売するのと同じ感覚なんだろう」
トイプードルをケージに戻しながら、涼也は吐き捨てるように言った。
「大学病院に売り物になるように、健康状態に気を使っている......そういうことよね?」
華の言葉に涼也は頷きつつ、次のケージを開けると生後五ヵ月の雌のチワワを抱き上げた。
「困ったわ」
華がため息を吐いた。
「どうして? こうやって、生後四ヵ月を過ぎた子犬達を密室に閉じ込めていた証拠を押さえたじゃないか?」
「そんなの、店のスペースの問題でここを予備の飼育部屋にして、順番にフロアに出すと言われたら終わりよ」
「だって、ここにいるのは、四ヵ月を過ぎて大きくなった子犬ばかりだよ? それは、ちょっと無理があるんじゃないかな?」
涼也は言いながら、チワワをケージに戻した。
「無理があっても、清潔な環境で温度調整をした部屋で飼育している事実があるんだから、売り物だと言われたらそれを否定できないわ。散歩だって、きちんとさせていると言われれば、それ以上の追及はできないでしょう?」
華が苛立たしげに言った。
「私が......証言します」
涼也と華は、ほとんど同時に視線をドアに移した。
顔面蒼白な沙友里が、立ち尽くしていた。
「証言って、なにをだい?」
涼也は訊ねた。
「ここに子犬達がいることを......私達スタッフは......まったく知らされていませんでした......」
相当にショックを受けているのだろう、沙友里が切れ切れの声で言った。
「そうか。沙友里ちゃん達スタッフの証言があれば、この子達が売り物ではないと証明できるってわけだね」
沙友里が、強張った顔で頷いた。
何年も勤務している店で、自分の知らないところで売り時を過ぎた子犬達が隠されていたという現実を目の当たりにし、さすがに沙友里も真理子の裏の顔を認めざるを得なかったのだろう。
「ありがとう、沙友里ちゃん。でも、いいのかい? 君の尊敬している人を敵に回すことになるんだよ? それに、もし気が変わっても、この防犯カメラに......」
「防犯カメラは、出勤してすぐに切りました。販売フロアにも防犯カメラはあるので、電源の場所を知っていましたから。金庫室の防犯カメラも、同じ電源だと思います」
涼也を、沙友里が遮った。
「でも、電源なんか切ったら君達スタッフが疑われてしまうんじゃないか?」
「空調関係の電源と同じ場所にあるので、以前にも何度か間違って切ったことがあるんです。いままでも軽い注意で済みましたから、ここを元通りにしておけば不審に思われることはありません」
言い終わらないうちに、沙友里がまだ開けていないケージからフレンチブルドッグを抱き上げた。
「二、三十分もすれば、カンナちゃんが戻ってきます。彼女には、知られたくありませんから急ぎましょう」
沙友里は言いながら、フレンチブルドッグの歯茎のチェックを開始した。
「そうだね」
涼也も次のケージに移った。
残りのケージは、あと三つだ。
「それに、私が証言すると決めたのは真理子社長を糾弾するためじゃなくて、真相を知りたいからです。ここにいる子犬達は、たしかに『Dスタイリッシュ』で売る子ではありません。でも、一、二ヵ月前まではウチにいた子犬達です......」
沙友里の声は震えていた。
「売れなくなったと判断された子犬達のことを、長谷社長は君達になんて説明しているの?」
手の動きは止めずに、涼也は素朴な疑問を沙友里にぶつけた。
「売れないと判断された子犬達は、社長が知り合いや老人ホーム、養護施設に安く譲り渡していると聞いていました」
沙友里の瞳には、うっすらと涙が溜まっていた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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