168時間の奇跡第9回
3
午前七時。「ワンコの園」のフロアは、十人前後の制作会社のスタッフが慌ただしく動き回っていた。
テレビ番組の撮影が入るので、「ワンコの園」をいつもより一時間早く開けていた。
「シャツの中失礼しまーす」
ADの男性が、涼也の襟もとにピンマイクをつけ、慣れた手つきでコードをポロシャツの中を通しアダプターをチノパンのヒップポケットに入れた。
「所長さん、後ろのワンちゃんと被っちゃうので、もうちょっと右にいいですか?」
カメラマンが、涼也に言った。
振り返ると、柴犬のトップが涼也の背後に隠れていた。
「あ、はい」
涼也は、右に移動した。
「ストップ......行き過ぎです。今度は、別のワンちゃんに被っちゃいます」
カメラマンが、トイプードルのモモのサークルを指差した。
「あ、すみません」
涼也は、左に一歩戻った。
「なんだ、ガチガチになってるじゃないか。お前でも、緊張することあるのか?」
ボランティアの達郎が、からかうように言いながら歩み寄ってきた。
達郎はテレビ番組の制作会社「大京テレビ」の営業部に勤務しており、今回、「殺処分ゼロを目指して」という保護犬と保護猫をテーマにしたドキュメント番組に「ワンコの園」をブッキングしてくれたのだった。
人前に出ることが苦手な涼也は、いったんは達郎の申し出を断った。
だが、全国ネットで保護犬の現状を一人でも多くの人々に伝えることこそが、番組を観ている一人一人の意識を変革し、全国で殺処分ゼロを達成する道に繋がる、という達郎の説得で出演を決めたのだ。
達郎とは、高校時代からの付き合いだった。
互いに別々の大学に進学し、別々の会社に就職してからも交友関係は続いた。
お調子者のムードメーカーで空気の読める達郎と、一本気で長いものに巻かれない頑な涼也は正反対の性格をしていたが、不思議とウマがあった。
達郎が涼也をうまく乗せてくれているからこそ、二人の友情関係が長続きしているのは間違いなかった。
「だから、言っただろう。昔から、人前に出るのは苦手なんだ」
「犬の前なら平気なんですけどね」
ボランティアの亜美が、子犬系の童顔を綻ばせ茶化してきた。
「所長をからかうんじゃありません」
隣に立っていた沙友里が窘(たしな)めると、いたずらを叱られた子供のように亜美が首を竦めた。
しっかり者の姉とおてんばの妹、という感じだった。
亜美は、沙友里が勤務するトリミングショップの後輩だ。
「そうだよ、お前は余計な一言が多い! それに、テレビに映るからって、化粧が濃くないか?」
沙友里の反対側の隣に立っていたボランティアの健太が、亜美にダメ出しと突っ込みを入れた。
健太は亜美より二歳上の二十四歳で、本業は引っ越しセンターに勤務している。
いつもは分散してローテーションを組んでいるが、今日はテレビの撮影なので四人のボランティア全員のスケジュールを合わせたのだった。
「うるさいわね! 自分こそ、いつもは薄汚いTシャツのくせにジャケットなんか羽織っちゃって」
亜美が、負けじと応戦した。
「もう、あなた達は、寄ると触るといがみ合ってばかりね」
沙友里が、呆れたようにため息を吐いた。
「喧嘩するほど仲がいいってやつだな。いっそのこと、つき合ってみたら?」
達郎が悪乗りして茶々を入れた。
「ちょっと、達郎さんやめてくださいよ! そこら中にマーキングするような節操のない男はごめんです!」
亜美が円(つぶ)らな瞳を大袈裟に見開き、顔前で大きく手を振った。
「誰がそこら中にマーキングするか! 俺のほうこそ、モモと付き合ったほうがましですよ!」
健太が、モモのサークルに駆け寄り抱き上げた。
「二人とも、いまから撮影なんだから、そこらへんでやめなさい。達郎さんも、面白がって煽らないでくださいね」
沙友里が、三人にダメ出しした。
「沙友里ちゃんは、本当に落ち着いてるね。健太とたったの一個違いとは思えないな」
達郎が、感心したように言った。
「なんですか、達郎さんまで馬鹿にして。みんな、ひどいよな~? モモちゃん」
健太がモモに頬ずりした。
「千原さん、スタンバOKです」
ADが、カメラマンの隣で腕組みをしてなにかを考え込む、よく陽に焼けた中年男性に声をかけた。
千原は番組のプロデューサーだった。
「どうかしたんですか?」
達郎が、千原に訊ねた。
「ん~。なんか、画(え)が弱いんだよな~」
千原が、涼也をみつめてしきりに首を捻った。
「涼也は、シベリアンハスキーみたいなコワモテ顔でインパクトあると思いますけど? 背も百八十センチを超えてるし、ラガーマンタイプのマッチョで迫力あるし」
達郎が、涼也の肩を叩きながらふたたび茶化してきた。
嫌な気はしなかった。
昔から、達郎には何度も救われてきた。
「いや、所長さんはバッチリだよ。主役ちゃんたちがねぇ。あ、君、そのトイプードルちゃんを抱いたままこっちにきてくれるかな?」
千原が、健太に手招きした。
「え? モモがカメラに映らなくなりますよ?」
涼也の胸に芽生えた疑問を、健太が代弁した。
「映さないためさ」
涼しい顔で、千原が言った。
「千原さん、どうしてモモを外すんですか? モモは人気ナンバーワンの犬種で、まだ二歳と若いですし、外しちゃったら画面がもっと地味になっちゃいますよ?」
達郎が、怪訝そうに訊ねた。
「だから、外すのさ。画面が華やかになったら困るんだよ。いいか? これはペットショップのPR番組じゃなくて、保護犬の番組だ。ほしいのは、若くて華のある人気犬種の画じゃなくて、老犬で悲愴感の漂った犬の画なんだよね~」
「老犬で悲愴感の漂った犬......ですか?」
達郎が、千原の言葉を鸚鵡(おうむ)返しにした。
「そうそう。ビジュアルに欠点があるせいで、ペットショップで売れ残って大きくなった犬、虐待されて人間不信になった凶暴な犬、年を取り眼や耳が悪くなり手間がかかるという理由で捨てられた犬......ねえ、所長、ほかにそういう犬はいませんかね?」
千原が、涼也に視線を移した。
「ウチには、いま、ここにいるだけの子達ですが......。この子達だけでは、だめですか?」
涼也は、冷静さを保ちつつ訊ねた。
「いや、だめじゃないから、困ってるんですよね~。『ワンコの園』の犬は、みんな、小奇麗で生き生きとし過ぎなんですよ。つまり、幸せ過ぎるってことです」
千原が、両手を広げ肩を竦めた。
「この子達が、幸せだといけないんですか? 保護犬は、悲愴感が漂う不幸な犬じゃなきゃだめなんですか?」
涼也は、強張った声で問い詰めた。
「そういう意味じゃないんですが、番組の趣旨としてはそのほうが効果的だと言ったまでです。所長さんが番組に出演するのは、『ワンコの園』の活動を一人でも多くの視聴者に知って貰い、全国殺処分ゼロを実現するのが目的ですよね?」
千原が、少しも動じたふうもなく訊ね返した。
「そうですが、それがなにか関係あるんですか?」
涼也は、千原を見据えた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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