168時間の奇跡第45回

   11 

 大久保の雑居ビルの五階――「昭和興信」のプレイトが貼られたドアの前で、涼也は足を止めた。
 ここを訪れるのは、もう七、八年ぶりになる。
 涼也はインターホンを押した。
『入りな』
 スピーカーから、痰(たん)が絡んだような濁声(だみごえ)が流れてきた。
「失礼します」
 涼也がドアを開けた瞬間、不快な臭いが鼻孔に忍び込んできた。
 霧が立ち込めたような紫煙に覆われた五坪ほどの室内――粗大ごみから拾ってきたような応接ソファに座った白髪交じりの初老の女性が、ぽっかりと口を開けて涼也をみつめた。
「お久しぶりです」
 涼也はハンカチで鼻を覆いながら、初老の女性......マリーの対面のソファに腰を下ろした。
 マリーというのは、ニックネームで本名ではない。
 一九七三年に発売され大ヒットした「五番街のマリーへ」という曲が好きで、タイトルから取った名前だと以前に聞いた覚えがあった。
 マリーは警戒心の強い女性で、涼也も本名を知らない。
「おやおや、誰かと思ったよ。どうしたんだい? まったくの別人になっちゃって。昔は狼みたいな鋭い眼をしていたのに、いまはペットの犬っころみたいな優しい眼をしてるじゃないかい。ああ、そう言えば、いまはペットショップを経営してるんだって?」
 マリーが短くなった煙草のフィルターに刺した爪楊枝を指先で持ち、使い捨てライターで火をつけた。
 昭和初期にタイムスリップしたようなマリーの行動に、涼也は苦笑いした。
「ペットショップではなく、里親を募る保護犬の施設です。それより、そういう倹約家なところ、マリーさんは昔とちっとも変わりませんね」
「節約に昔もいまもあるかい! いつの時代も、金を残した人間が笑うと決まっているもんさ」
 マリーが、紫煙を撒き散らしながら高笑いした。
 本人が言っていたように、マリーは金の亡者と守銭奴との間に生まれてきたような女だ。
 出すものは、ゲップさえも惜しむ性格だ。
 涼也は、室内に首を巡らせた。
 ヤニで黄ばんだ壁紙、切れかかった蛍光灯、壁際を埋め尽くすように設置された書庫、書庫に並ぶ膨大な顧客ファイルの背表紙、応接ソファの横に向かい合わせるように設置されたスチールデスク......事務所内の雰囲気も、涼也の記憶のままだった。
「息子さん達にデータをパソコンで管理させたら、書庫が必要なくなって事務所が広くなりますよ」
 涼也は、二脚の無人のスチールデスクを見ながら言った。
「昭和興信」は経営者であり母親であるマリーのもと、当時三十三歳と三十歳の息子......長男の信一と次男の信二が調査員として働いている。
 彼らはとても優秀な調査員で、涼也は街金融時代に借金を踏み倒して行方不明になった不良債務者の逃亡先を十人以上突き止めて貰った。
 若い頃はマリーも興信所に勤めていたらしく、息子たちの話によれば顧客のリピート率が九十パーセント以上の腕利きの調査員だったそうだ。
「そんな時間を使わせるくらいなら、尾行だよ、尾行! 第一、あんなもん、データが流出したとか乗っ取られたとかって信用できないさ。紙が一番だよ」
 背を丸め首を前に出したマリーが、皺々の頬を窄(すぼ)めほとんどフィルターだけになった煙草を吸った。
「アナログ至上主義も、相変わらずですね」
 涼也は肩を竦めた。
「そんなことより、わざわざあんたのために用意しといたよ。飲みな」
 マリーは恩着せがましく言うと、テーブルの上の缶コーヒーに視線をやった。
「十円缶コーヒーですね。懐かしいな。頂きます」
 涼也は微笑み、缶コーヒーを手に取りプルタブを引いた。
 マリーの顧客にスーパーの経営者がいるらしく、賞味期限が切れる寸前の缶コーヒーを一本十円で何ダースも仕入れていると自慢していたことがあった。
「胃の中に入りゃなんでも同じさ。それに、いまは十円じゃなく十五円に値上がりしてんだ。ありがたく飲みな」
 涼也は苦笑いしつつ、缶コーヒーを傾けた。
「ひどい男だね~」
 クリアファイルを手にしたマリーが、吐き捨てるように言った。
「え?」
「工藤って繁殖屋だよ」
 マリーが、クリアファイルを涼也の前に置いた。
「窃盗、脅迫、売春......一週間で出るわ、出るわ犯罪のデパートだね。あんたから街金時代に依頼された不良債務者達もクズ揃いだったけど、この男はさらに上を行く外道だ。繁殖屋っていうより、立派な犯罪者だよ」
 呆れたように、マリーが言った。
 涼也は、備考欄に書かれた報告文を眼で追った。

 ●茨城、栃木、群馬に十数軒の売春宿を経営。
 ●未成年に相手をさせた客を脅迫して金を強請(ゆす)り取る。
 ●他の犬舎のインターナショナルチャンピオン血統の高価な子犬を組織的に盗み、闇で犬ブローカーに転売。

 涼也は、息を呑んだ。
 叩けばなにか埃が出ると見当をつけて「昭和興信」に工藤の調査を依頼したのだが、まさかこんなに罪を犯しているとは思わなかった。
 だが、涼也にとっては嬉しい誤算だ。
 工藤が罪を重ねるほどに、涼也には追い風となる。
「信一が売春宿で働いていた十六歳の少女を押さえている。協力すれば客を十人取ったぶんの小遣いをやるってね。彼女は一人につき五千円の実入りだから、五万円の追加料金が必要になるけどどうする? 嫌だったら断ってもいいんだよ。その代わり、少女の証言は取れなくなるけどさ。因みに、彼女は工藤の店で売春していたことのほかに、客から金を脅し取るための美人局(つつもたせ)の手先になっていたことも証言すると言っているよ」
 マリーはどうでもいいといったふうを装っていたが、内心は違うことを涼也は知っていた。
 涼也の過去の経験から推測すれば、少女に渡しているのは三千円でマリーが二千円の上前をハネる気に違いない。
「出しますから、証言をお願いします」
 涼也は即答した。
 工藤に罪を贖(あがな)わせるためなら、五万円が五十万円になっても出費を厭わない。
「さすが、眼つきは変わっても金離れがいいところは変わらないね~」
 マリーがヤニと茶渋で黄褐色に変色した前歯を剥き出しに笑った。
「もう一つ、信二のほうは窃盗犯を押さえている。工藤に命じられてチャンピオン血統の子犬を盗み出していたうちの一人だよ。男は、別途二十万払えば証言するとさ」
 ふたたび、興味のないふうを装うマリー。
「こっちもお願いします。罪状は多いほうが、長く刑務所に入れておけますから」
 涼也は、押し殺した声で言った。
 児童買春罪、恐喝罪、窃盗罪......三つの罪が立証されれば、仮に工藤が初犯であっても執行猶予なしの実刑は免れないだろう。
 捜査が進めば余罪が出てくる可能性も高く、うまくいけば五年は牢屋に繋いでおける。
「そうかい。じゃあ、成功報酬の三十万に追加料金を足した五十五万を振り込んでくれ」
「わかりました」
 マリーの息子である調査員の信一と信二の日当が一人五万円ずつで、費やした日数が七日なので七十万円......前金として四十万円は支払い済みなので、残金は三十万円というわけだ。
 追加料金が発生したので、「キング犬舎」の工藤の身辺調査にかかった費用は合計九十五万円だ。
「一つ、訊いてもいいかい?」
 マリーがフィルターだけになった吸い差しの煙草を灰皿代わりの空き缶に落とし、唾を垂らすとジュッと音がした。
「なんですか?」
「犬屋になったあんたが、どういう経緯でこんな極悪人の悪事を暴くんだい?」
「工藤は、長年に亘り数多くの犬や猫を虐待しています。商売道具としての価値がなくなったら殺して、ゴミのように捨ててしまう。人の道に悖(もと)る鬼畜のような男です。そんな男を、野放しにしておくわけにはいきません」
 真理子に見せられた無残な子犬達の姿が脳裏に蘇り、涼也は奥歯を噛み締めた。
「おやおやおや、別人みたいになったのは外見ばかりじゃなくて性格もかい? 街金時代は鬼の取り立て人として名を馳せていた男が、犬ころのために百万近い金を払って極悪人を成敗しようだなんてさ。会わないうちに事故にでも遭って、頭を打ったのかい?」
「犬も人間も命の重さに変わりがないということを、この十年で僕も学びました」
 涼也は、マリーの瞳をみつめた。
 過去の自分の行いを正当化するつもりはなかった。
 幼い命と引き換えに自分に良心を取り戻してくれたあのラブラドールレトリーバーの子犬のためにも、これからの人生を一頭でも多くの動物達を救うために尽くすと誓った。
「立派な心掛けなのはいいが、あたしゃやめといたほうがいいと思うがね。せっかく穏やかな犬ころの目になったのに、また、狼の目に戻るつもりかい?」
 マリーは言いながら、涼也に出した缶コーヒーを手に取り飲んだ。
「仲間を助けるためなら、犬だって狼のように獰猛になります」
 涼也の言葉に、マリーが枯れ枝さながらの皺々の細い手を叩き大笑いした。
「お前さん、いつから犬になったんだい? まあ、冗談はおいといて、あとで息子たちのほうから連絡をさせるから証人のやり取りは二人としておくれよ。で、残金はいつ振り込むんだい?」
「戻り次第、すぐに手続します。ありがとうございました」
 涼也はソファから腰を上げ、頭を下げた。
 武器(・・)は手に入れた。
 だが、本当の戦いはこれからだ。
 頭を上げた涼也は踵を返し、ドアへと向かった。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー