168時間の奇跡第5回


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「ジェットちゃん、会いにきまちたよ~」
 サークルに入った村西紀香は腰を屈め、相好を崩してジェットを抱き締めると頭を撫でた。
 ジェットは尾を左右にパタパタと振りながら、紀香の頬を舐めた。
 夫の翔太は紀香の傍らに立ち、仕事のやり取りなのかスマートフォンの操作をしていた。
 二グループ目の散歩から戻ってきていた沙友里が、三グループ目の犬達にリードをつけながら、さりげなく様子を窺っていた。
 里親希望者がホームページのサイトで見た保護犬のイメージと実物が違うと、すぐに帰ってしまうことも珍しくなかった。
「ワン子の園」のボランティアスタッフはみな、ファーストリアクションを固唾を呑んで見守っている。
 尤も、そのことで涼也が気落ちすることはなかった。
 そんな里親希望者が連れ帰っても、動物愛護相談センターにふたたび持ち込まれるのが関の山だ。
 むしろ、引き渡す前にわかって不幸中の幸いだ。
「ジェットちゃんは、お利口さんの顔をしてましゅね~。ママのところにきたいでしゅか~」
 紀香は、赤ちゃん言葉でジェットに語りかけた。
 相変わらず、翔太は難しい顔でスマートフォンを操作していた。
「あまり、似てませんね」
 不意に、振り返った紀香がサークルの外に立つ涼也に話しかけた。
「え? なにがですか?」
 質問の意味がわからず、涼也は訊ね返した。
「私、小さな頃からスヌーピーが大好きなんです」
 無邪気に破顔する紀香を見て、涼也は質問の意図を察した。
「あ、そういう意味ですね。たしかにスヌーピーのモデルはビーグルですが、キャラクターはかなりデフォルメしていますからね。あの不朽の名作アニメ『フランダースの犬』のパトラッシュのモデルはブービエデフランダースという犬種ですが、見た感じはまったくの別犬ですから」 
 涼也は、笑いながら言った。
「あ、その犬、私も見たことあります。ブービエデなんとかって、モップみたいにモシャモシャしててパトラッシュに全然似てませんでした。ねえ、どう思う?」
 紀香が、涼也から翔太に視線を移した。
「ん? どれどれ」
 翔太がようやくスマートフォンから視線を離し、ジェットの前に屈んだ。
「かわいそうにな~。こんなに大きくなっちゃったら、なかなか貰い手がいないだろう」
 翔太が、ジェットの首筋を撫でつつ話しかけた。
「もう二歳だから。みんな、できればパピーがいいでしょう」
紀香が、さらりと言った。
「じゃあ、ほかの犬も見る?」
「ううん、ビーグルが飼いたいって言ったでしょ。ビーグルは、この子だけですよね?」
紀香が、涼也に訊ねてきた。
「ええ。ジェットだけです。相性が、イマイチですか?」
 涼也は探りを入れた。
「いえ、そういう意味じゃありません。ただ、ほかに小さな子がいるなら慣れてくれやすいかな、と思って。成犬は慣れ難いっていうじゃないですか」
 悪びれたふうもなく言うと、紀香が微笑んだ。
「たしかに、そういうイメージが一般的ですけど、愛情を持って接すれば、老犬であっても信頼関係は築けますよ。それにウチはペットショップではないので、基本は成犬のほうが多いんです」
 涼也は、穏やかな口調で言った。
「そうだよ、お前、なに言ってるの? そもそも、ビーグルで生後二ヵ月とか三ヵ月なら保護犬になるわけないだろう? ペットショップに数十万で売られてるよ」
 ふたたびスマートフォンのディスプレイに視線を落としつつ、翔太が紀香を諭した。
 翔太の言うことは至極真っ当なものだったが、涼也にはなにかが引っかかった。
 その違和感は、妻の紀香にも感じていた。
「あの......」
「いくつかお話を伺いたいことがありますので、こちらへお願いできますか?」
 涼也は口を開きかけた沙友里を目顔で制し、村西夫妻を壁際の応接ソファに促した。
「ジェットちゃんに決めました」
 ソファに座るなり、紀香が口を開いた。
「おいおい、いいのか? そんな簡単に決めちゃって?」
 翔太が、訝しげな顔で妻を見た。
「だって、ビーグルはこの子しかいないんだから」
 あっけらかんとした口調で、紀香が答えた。
「お話し中、すみません。ジェットを気に入って頂いて大変嬉しいのですが、いますぐ決定というわけにはいかないのです」
 涼也は、穏やかな口調で切り出した。
「あ、里親募集のサイトの注意事項を読みましたから、知ってます。心変わりをしないか、面接を二回するんでしたよね?」
 紀香が、得意げに言った。
「はい。でも、それだけではありません。この子達が生涯、安心して暮らせる環境かどうかを調査する目的もあります」
「ウチは大丈夫ですよ! 子供もいませんし、私は専業主婦ですからペットに時間を割ける環境ですからね! そうよね?」
 胸を張る紀香が、夫に同意を求めた。
「ああ、そうだね。ご安心ください。我が家は、ジェット専用に六畳の部屋も用意してますし、最高に幸せな環境で過ごせますよ」
 翔太が、自信満々の表情で言った。
「ありがとうございます。ですが、一度人間との信頼関係を失っている保護犬を受け入れるということは物質面の充実だけでは十分ではありませんので、いくつか質問させてください」
「つまり、僕達が里親として合格か不合格かをテストするということですね?」
 それまで手にしていたスマートフォンをテーブルに置いた翔太が、笑顔で訊ねてきた。
 スマートフォンのディスプレイには、相場のグラフのようなものが映っていた。
 さっきから夫は、株か為替の推移を気にしていたようだ。
「大変申し上げにくいのですが、そういうことになります。この子達には、もう二度と傷ついてほしくないんです。どうか、ご理解ください」
 涼也は、頭を下げた。
「全然平気ですよ。僕達は昔から犬好きで、我が子のように考えていますから」
 翔太が、流暢な口調で言った。
「では、まず、お訊ねしたいのは、どうして犬を飼いたいと思ったんですか?」
 涼也は、基本的な質問から入った。
 基本的だからこそ、犬にたいしてどう向き合っているのか見えてくるものがあるのだ。
「先ほども言いましたが、僕達夫婦には子供がいません。妻も三十五になりますし、もう、シャカリキになって子作りに執着するよりは、犬を子供代わりに育てようと二人で話し合ったんです」
 翔太の口調は、相変わらず淀みがなかった。
「なぜ、ジェットを選んでくださったんですか?」
「それは、妻がビーグルを飼いたいとずっと言い続けてきたもので。本人も言ってましたが、大のスヌーピーファンなんです」
 翔太が、紀香に笑顔を向けた。
「リアルスヌーピーを飼うのが、夢だったんです!」
 紀香が、瞳を輝かせて言った。
 沙友里は第三グループの犬達にとっくにリードをつけ終わっていたが、まだ散歩に出かけておらず、険しい表情で紀香を見ていた。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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