168時間の奇跡第4回

「橋本工務店」は戸建ての一階がオフィスで、二階が橋本と妻の自宅になっていた。
 茶の間は蛻(もぬけ)の殻(から)だった。
 
 ――飛ばれちゃいましたね。どうします......。

 部下の声に、なにかの声が重なったような気がした。
 涼也は茶の間を飛び出した。
 声はしなかった。
 気のせいだったのか?

 ――なんか、聞こえましたよね?

 部下の言葉で、空耳でないことがわかった。
 廊下を奥に進んだ。
 突き当りのドアを開けた。
 異臭と刺激臭が鼻孔に忍び込んできた。
 寝室......敷きっぱなしの布団で横になった黒い子犬が、か細い鼻声で弱々しく鳴いていた。
 そこここに、糞尿が撒き散らされていた。
 餌と水が入っていたのだろう、空のボウルは引っ繰り返っていた。

 ――水を持ってきてくれ。

 涼也はボウルを部下に渡し、子犬の傍らに屈んだ。

 ――大丈夫か?

 声をかけながら、涼也は子犬の頭を優しく撫でた。
 脇腹には痛々しいほど肋骨が浮き出ており、栄養失調であろうことは一目でわかった。
 橋本夫妻が夜逃げしてからの三日間、寝室に閉じ込められ餌も水も飲めずに衰弱したのだろう。
 
 ――持ってきました!

 部下から受け取った水の入ったボウルを涼也は、子犬の鼻先に置いた。
 子犬は鼻をヒクヒクとさせていたが、顔を上げる力も残ってないようだった。

 ――頑張って飲まないと、死んじゃうぞ。

 涼也は励ますように言いながら、水に浸した指先を子犬の口元に近づけた。
 小さな鼻をヒクヒクさせた後に、子犬が舌を出し涼也の指先を舐めた。

 ――いいぞ、その調子だ。今度は、もうちょっと頑張ってみようか。

 涼也は子犬を抱きかかえ、掌に掬った水を口元に持っていった。
 まるで灌木を抱いているように、子犬の身体は軽くゴツゴツしていた。
 子犬が、ゆっくりと舌を出し水を飲み始めた。
 
 ――店長が犬好きだったなんて、意外です。
 ――別に、そういうわけじゃ......。
 
 突然、子犬が白目を剥き痙攣を始めた。
 子犬は四肢を突っ張り、食い縛った歯から舌を出して硬直させた身体を震わせていた。

 ――おい、どうした!? しっかりしろ! 車を回せっ。動物病院に連れて行くぞ! 
 ――橋本は、どうするんですか?

 記憶の中の怪訝そうな部下の声に、力強い犬の吠え声が重なった。
 二本足で立ち上がったコールがサークルに前足をかけながら、遊んでほしくて要求吠えをしていた。
「ごめんな。これからお客さんがくるから、いまは相手をしてあげられないんだ。沙友里ちゃんが、もうすぐ戻ってくるから。そしたら散歩に行けるから、少しの我慢だよ」
 涼也は微笑みかけ、コールの頭を撫でた。
 デスクに腰を下ろした涼也は、ノートパソコンが立ち上がるのを待った。 
 中古で買ったものなので、起動するのに時間がかかった。
 調子が悪いときは、五分近くかかってしまう。
 涼也はデスクチェアに背を預け、視線を横に移した。
 フォトスタンドのフレイムの中――眼を閉じ横たわる黒いラブラドールレトリーバーの子犬を涼也はみつめた。
 肋骨の目立つ脇腹が痛々しかった。
 写真の子犬が横たわっているのは、動物病院の診察台だった。
 眼を閉じ、震える息を吐き出した。
 あれから六年......いまでも、脳裏に焼きついて離れなかった。
 あのときの胸の痛みを、忘れてはならない......胸に刻まれた痛みが、ほんの少しでも薄れてはならない。
 
 ――残念ですが......極度の栄養失調により、低血糖発作を起こしたことが原因だと考えられます。つまり、餓死です。

 獣医師の言葉が、涼也の胸に突き刺さった。
 
 ――ひどい飼い主さんですね。三ヵ月の子犬を部屋に閉じ込めたまま、どこかに出かけるなんて......痛ましい話です。
 
 非難されているのは、飼い主である橋本夫妻だった。 
 子犬を置き去りにして餓死させたのだから、獣医師が憤るのも無理はない。
 だが、涼也にはわかっていた。
 子犬を殺したのは、橋本夫妻ではないということを......。

 ――八百万程度の焦げ付きなら、気にしなくてもいい。そんなことでいちいち進退問題になったら、全国の支店長がいなくなってしまう。さあ、こんなものしまってくれ。

「ヘルプ&サポート」の本部長が、涼也に辞表を差し戻した。
  
 ――「橋本工務店」への貸し倒れが理由で辞表を出したわけではありません。
 ――だったら、なぜだ? 君が店長を務める渋谷支店の業績は、常にトップ争いをしている。給料だって、一般サラリーマンの二十九歳では貰えないような額だろう? いったい、なにが不満だと言うんだ?
 ――不満はないです。申し訳ありません。
 
 涼也は、差し返された辞表をふたたびデスクに置くと深く頭を下げ、本部長室をあとにした。
 理由などなかった。
 あるのは、自分への絶望と子犬への贖罪......。
  
 涼也は胸元に手をやった――小さな遺骨の入ったペンダントロケットを握り締め、眼を開けた。
「罪滅ぼしになるとは、思ってないよ」
 涼也は、フォトスタンドの中の子犬に語りかけた。
「ただ、一頭でも多く......」
 言葉の続きを、涼也は胸に刻み込んだ。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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