168時間の奇跡第33回

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 代官山駅近くの雑貨店の前で、ノースリーブの白いブラウスにデニムを穿いた女性......華が、改札を出た涼也に大きく手を振った。
「ごめん、待った?」
 小走りに華のもとに駆け寄りつつ、涼也は訊ねた。
 華が東京都の動物愛護相談センターに勤務していたときは一緒に暮らしていたが、Z県に異動になってからは別居していた。
「ううん、私も着いたばかり。昨日は、沙友里ちゃんの説得を手伝ってくれてありがとうね」
「僕なんか、たいしたことはなにもやってないさ。君の動物への深い思いが、沙友里ちゃんの心を動かしたんだよ」
 本心からの言葉だった。
「だといいけど。とにかく、沙友里ちゃんが協力してくれて助かったわ。もう、店に出てるよね?」
 華が、スマートフォンのデジタル時計に視線を落とした。
「さっき、店に着いたって連絡が入ったよ。因(ちな)みに、午前中は沙友里ちゃんともう一人の女性トリマーの二人だけらしい」
「Dスタイリッシュ」のオープンは午前十時からで、いまは九時五十五分だった。
「じゃあ、視察もやりやすいわね。少し早いけど、行きましょう」
 華が八幡(はちまん)通り方面に向かって歩を踏み出した。
「ところで、今日の僕の役目は?」
 華と並び歩きつつ、涼也は訊ねた。
「普段のままよ」
「え?」
「私達はカップルで、犬を飼おうとペットショップを訪れた。普段通りと違うのは、異変があるかどうかをチェックしてほしいってこと」
「虐待の痕跡のことだね?」
 華が頷いた。
「涼ちゃんも知っていると思うけど、動物虐待している店は、表向きが健全で問題なさそうに見えても、どこかに必ずサインが潜んでいるの」
 今度は、涼也が頷いた。
 華の言うサインとは、ひとつのことを指しているのではない。
 客の目に触れる空間は整頓されていても、バックヤードが雑然として不衛生であったり、かぎられたスタッフしか立ち入れないスペースが設けられていたりと様々だ。
 昨夜の段階で沙友里から聞いたかぎりでは、販売フロアはもちろん、トリミングルーム、更衣室、休憩室などのバックヤードも清潔に保たれ衛生上の問題はないということだった。
 ただし、気になることも言っていた。
「昨日、沙友里ちゃんが言っていたんだけどさ......」
 涼也は、沙友里から聞いた話を華に伝えた。
「まあ、彼女が言うんだから、バックヤードの衛生面も問題はなさそうね。本当は、仕入れリストとかを見せて貰えれば事がスムーズに運ぶんだけど......。通報が入ったというだけの現状では、そこまでの強制力はないしね」
 華がため息を吐いた。
「沙友里ちゃんの話ではバックヤードに四部屋あって、そのうちの一つに金庫室があるらしいんだ」
 涼也は、沙友里の話で気になったことを口にした。
「金庫室? なにそれ?」
 華が、怪訝そうな顔を向けた。
「フロントヤードは、販売用の生体を置くスペースが十坪、バックヤードは全部で二十坪で、トリミングルームが五坪、更衣室が五坪、休憩室が五坪......そして、金庫室が五坪という内訳らしい」
「沙友里ちゃんは入ったことがないの?」
「金庫室だから、社長以外は立ち入り禁止みたいだね。まあ、売り上げを管理している部屋だから、防犯上、当然と言えば当然なんだろうけどさ......」
 涼也は、歯切れの悪い口調で言った。
「でも、ペットショップにわざわざ金庫室を作るなんて、不自然じゃない? ほかに経理関係専用の事務所のためのビルを借りる出費を抑えたいなら、社長室とか事務室とかにして金庫を置くと思うんだけど。普通なら、泥棒とかに入られたくないから金庫を置いてある部屋だと悟られたくないものでしょう? 殊更、金庫室と強調するのは、スタッフに立ち入らせないための大義名分としか思えないわ」
「僕も、そこに違和感を覚えていたんだよ」
 涼也も同感だった。
 金庫のある場所は、隠したいのが普通の感覚だ。
「鍵とか、どこかに置いてあるのかな?」
 思い出したように、華が訊ねてきた。
「さすがに金庫室の鍵は、置いておかないだろう......っていうか、もし置いてあっても、勝手に入るわけにはいかないよ」
 涼也が言うと、華が考え込む表情で黙り込んだ。
 そうこうしているうちに、「Dスタイリッシュ」のテナントが入る打ちっ放しのコンクリートのビルが見えた。
「なにか、方法はないかしら......」
 店から十メートルほど手前で足を止め、華が独り言(ご)ちた。
「金庫室に入る方法?」
 涼也も足を止め訊ねた。
「うん。直感だけど、そこに秘密が隠されている気がするの。鍵があったとしたら、ドアを開けて貰うだけならいいんじゃない? 室内には入らずに、中を覗くだけ。そしたら、不法侵入にはならないでしょう? ねえ、あなたはどう思う?」
 華が涼也に意見を求めてきた。
「どうだろう。鍵を開けた時点で不法侵入は成立するような気もするけど。仮にならなくても、もし、生後四ヵ月を過ぎた子犬がいたらどうするんだい? すぐに命にかかわる状態でなければ、一度帰って強制立ち入り検査の手順を踏めばいいんだろうけど、早くても二、三日はかかるよね?」
「そのときは、すぐに犬達を救出するわ」
「だけど、不法侵入に......」
「わかってる。でも、目の前に虐待されている子達がいるのに見殺しにできないわ。それは、涼ちゃんも同じでしょう?」
 華が涼也を遮り、瞳をみつめた。
「もちろんさ。だけど、問題は沙友里ちゃんの立場だね」
 涼也は即答したのちに、一番の懸念を口にした。
「そうね。それは私も考えていたの。協力してくれた沙友里ちゃんに迷惑をかけるわけにはいかないしね......」
 華が思案の表情になった。
「まあ、ここで仮の話をして、いくら悩んでも仕方ないし、金庫室のドアを開けられたわけじゃないからね。とりあえず、店に入ろう」
 涼也は華を促し、足を踏み出した。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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