168時間の奇跡第16回
☆
「達郎さんって、金持ちなんすね~」
広々としたリビングルームのソファに座った健太が、物珍しそうに室内を見渡した。
恵比寿のマンションには、涼也は華と何度か遊びにきていた。
リビング以外に達郎の書斎と寝室があり、床面積は百平方メートルを超えていた。
三年前に達郎と真理恵の結婚式に、涼也と華は招待された。
達郎と華は顔見知りになっていたが、真理恵とは初対面だった。
二次会で華と真理恵は意気投合し、それから四人で旅行するほどの仲になっていた。
「あら、それだったらいいんだけど、ローン地獄で大変なんだから」
コーヒーを運んできた妻の真理恵が、芝居がかった口調で言いながら健太に顔を顰めて見せた。
訪ねたときに達郎はちょうどシャワーを浴びており、真理恵が部屋に通してくれたのだ。
事前に電話をしなかったのは、達郎に居留守を使われるのを避けるためだった。
「あ......すみません」
聞こえていたと思わなかったのだろう健太が、バツが悪そうに頭を掻いた。
「いいのよ。あなたは、涼也さんの保護犬施設の人?」
真理恵が二人の前にコーヒーを置きつつ、健太に訊ねた。
「はい。松島健太と言います!」
健太が立ち上がり、中学生のように自己紹介した。
「いちいち立たなくていいから」
涼也は苦笑しながら、健太に着席を促した。
「元気があって、頼もしいボランティアさんね」
「お蔭さまで、いい人材にサポートして貰って助かってるよ。突然に押しかけて悪かったね。頂きます」
涼也は真理恵に笑顔を向け、コーヒーカップを口元に運んだ。
「水臭いわね。仲直りしたら、また、華さんも誘って四人で飲みに行きましょう」
「あれ、達郎から聞いたんだ」
「ううん、帰ってきてずっと不機嫌だからなにかあったんだろうなと思って。そしたら、涼也さんがアポなしで訪ねてきたでしょう。ねえ、喧嘩の原因はなに?」
真理恵が、好奇の表情を作って見せた。
場を明るくするために、わざと野次馬を演じているのがわかった。
「決まってるだろう。涼也の石頭が原因だよ」
バスタオルを腰に巻いた格好で、達郎がリビングに現れた。
「もう、下着くらい着けてきてよね」
真理恵が呆れた顔で言った。
「悪いな、勝手に上がって」
「お邪魔してます」
涼也が言うと、健太が頭を下げた。
「悪いけど、ビールをくれないか? お前らも飲むか?」
達郎は真理恵から、涼也と健太に視線を移して訊ねてきた。
「あ、いや、俺は運転がありますから」
「そっか。じゃあ、涼也はつき合えよ」
涼也の正面のソファに座りつつ、達郎が言った。
「俺も遠慮しとくよ。このあと、まだやることがあるからさ」
今夜は保護施設に戻り、保護犬達の健康チェックをする予定だった。
昼間は散歩や餌やり、里親希望者の面談など慌ただしく保護犬達の健康状態に気を配る時間が十分に取れなかった。
もちろん、定期的に獣医師に往診にきて貰い健康診断は行っているが、犬猫は人間に比べて痛みや苦しみにたいして我慢強いので、日頃からマメにチェックしなければ気づいたときには手遅れということも珍しくはない。
人間の一日が一週間に相当する彼らは、病も数倍のスピードで進行する。
生まれたときから息を引き取るまで大好きな飼い主のもとで過ごした犬達と違う彼らには、健康な状態で少しでも長生きして幸せと愛を体感してほしかった。
「もしかして、『ワン子の園』に戻るのか?」
達郎が、真理恵から受け取った缶ビールのプルタブを引きつつ訊ねた。
「ああ、健康状態を診ておきたくて。それに、沙友里ちゃんがまだ残っていてくれるんだ」
「まったく、お前は本当に真面目というか融通がきかないというか......明日の朝やればいいじゃないか?」
「朝は朝で、やることがいろいろあってゆっくり診てあげられないんだよ。命に関わる問題だから、時間がどうとか言ってられないよ。まあ、これが俺の性分なのかな」
涼也は、苦笑いした。
「お前って奴は......」
達郎が、まじまじと涼也をみつめた。
「そこが、涼也さんのいいところじゃない」
真理恵が、口を挟んできた。
「そんなこと、君より俺のほうが知ってるよ」
照れくさそうに、達郎が言った。
「達郎。今日は、本当に悪かった。保護犬達の里親希望者を増やすために一生懸命に骨を折ってくれたお前の苦労を台無しにしてしまった」
涼也は頭を下げた。
「おいおい、やめてくれ。なんだよ、わざわざ謝るためにきたのか? とにかく、顔を上げてくれよ。女房の前で、俺が悪者みたいじゃないか」
達郎がおどけた口調で言いながら、あたふたとして見せた。
彼一流の、気遣いだ。
「許してくれるのか?」
涼也は顔を上げ、達郎に訊ねた。
「許したら、テレビに出演してくれるのか?」
悪戯(いたずら)っ子のような表情で、達郎が訊ね返してきた。
「『ワン子の園』の子供達をそのまま紹介していいなら、喜んで出させて貰うよ」
「昔から変わらず、筋金入りの頑固者だな」
今度は、達郎が苦笑いした。
「あら、あなた、涼也さんにどんな無理難題を吹っ掛けたの?」
真理恵が、達郎を軽く睨みつけた。
「ほら、お前が変なことを言うから......まあ、いいか。それより、先を越されたな」
達郎が、バツが悪そうに言った。
「なにが?」
「俺も、お前の気持ちを考えずに強引過ぎたって反省していたところなんだ。明日にでも、『ワン子の園』に顔を出そうとしていたのにさ。健太や女房の前で、一人だけ好感度あげやがって」
言うと、達郎が涼也の肩を平手で叩いた。
「痛いだろ」
「なに言ってるんだ。シェパードみたいに頑丈な身体しているくせに」
「シェパードだって、叩かれたら痛いんだよ」
涼也は、珍しく達郎の軽口につき合った。
親友と仲直りできたことが、素直に嬉しかったのだ。
「すっかり、高校時代に戻った感じね」
真理恵が、二人のやり取りを微笑ましい顔で見守った。
「よかったっす! 二人がらしくなってくれて!」
健太が破顔した。
「でも、これだけは心の片隅に留めておいてくれ。お前が保護犬達を思う気持ちの強さが、逆に彼らを不幸にするときがあるかもしれないってことをさ」
達郎の言葉に、腹立ちも反論する気も起きなかった。
親友が、心から自分を心配してくれているのが伝わったからだ。
「ああ、胆に銘じておくよ」
涼也は、右手を差し出した。
「小学生の仲直りみたいだな」
茶化しつつも、達郎が涼也の右手に右手を重ねた。
涼也のヒップポケットが震えた。
「ちょっと、失礼。あ、沙友里ちゃんからだ」
ヒップポケットから引き抜いたスマートフォンのディスプレイを見て、涼也は言った。
「こんな時間までボランティアしてくれるなんて、お前に気があるんじゃないのか~?」
達郎が、ニヤニヤしながら冷やかした。
「馬鹿を言うな。沙友里ちゃんに失礼だろ。もしもし? どうした?」
達郎を睨みつけ、涼也は電話に出た。
『所長っ、いますぐ戻ってきてください!』
沙友里の涙声が、受話口から流れてきた。
「どうしたの!?」
とてつもなく、不吉な予感がした。
『スマイルが......スマイルが......』
「スマイルがどうした!?」
スマイルは、三年前に動物愛護相談センターから引き取った十二歳くらいのゴールデンレトリーバーで、「ワン子の園」最年長の犬だった。
『痙攣して倒れて......いま、獣医さんにきて貰ってますけど、あと一、二時間が峠だって......』
嗚咽に呑み込まれる沙友里の声が、鼓膜からフェードアウトした。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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