168時間の奇跡第14回
「所長、さすがにこれはないっすよ。確認のために一応......」
呼び鈴を鳴らそうと伸ばした健太の手を、涼也は押さえた。
「え?」
怪訝そうに振り返る健太を促し、涼也はバンに戻った。
「帰るんすか?」
慌てて追ってきた健太が、運転席に乗り込みながら訊ねてきた。
無言で、涼也はスマートフォンをタップした。
「どこに電話する......」
問いかける健太を遮るように涼也は唇に人差し指を立て、受話口から流れてくるコール音に意識を集中した。
四回目の途中で、コール音は途切れた。
「もしもし? 夜分遅くにすみません。『ワン子の園』の沢口です」
『......所長さん、どうなされました?』
少しの間を置き、原田の掠れ声が流れてきた。
「大事な書類の記入を忘れていまして、ちょうど所用で原田さんのご自宅近くに向かっているので、これから立ち寄らせて頂きます」
『あ......私、いま、自宅におりませんので......』
原田は、明らかに動揺していた。
「車で伺いますので、お戻りになるまで待機してますから大丈夫ですよ」
『いや......それは困ります。今日は、戻りが深夜になりますから......』
動揺に拍車がかかる原田のリアクション――ポストに入れるという選択肢を口にしないことで涼也は確信を深めた。
「私のほうも、今日中にご記入して頂かなければならない書類なんです。では、三十分後にどこか外で落ち合いませんか? 署名だけなので、一分もかかりません」
重ねる嘘に、胸が痛んだ。
だが、クリームに幸せな犬生を送らせるために必要な確認なので仕方がなかった。
涼也の予感が当たっていれば、胸の痛みくらいでは済まなくなる。
『外で......ですか?』
「はい。ご指定頂ければ、どこへでも行きますので」
『......わかりました。では、中野駅の北口でもよろしいでしょうか? 三十分あれば、移動できると思います』
「了解しました。私も、すぐに向かいます。それでは、後ほど」
後味の悪い気分で、通話キーをタップした。
「署名して貰う書類って、なんすか? っていうか、中野に行くんですか?」
「書類の話は嘘だから、行かない」
涼也は言いながら、アパートのエントランスに視線を注いだ。
予感が、外れてほしかった――危惧が杞憂に終わってほしかった。
「え? 嘘? 話が見えないんすけど?」
「すぐに、どっちかはっきりするから」
視線をエントランスに向けたまま、涼也は言った。
健太に......というより自分にたいして向けた言葉でもある。
「なにがはっきり......」
涼也は、助手席のドアを開けバンを降りた。
願いは通じなかった――危惧は現実のものとなった。
「所長、どこに......あ! 原田さんじゃないっすか!?」
健太の声を背に受けながら、涼也はアパートのエントランスから出てきた原田に歩み寄った。
十メートル、九メートル、八メートル......涼也の存在に、原田はまだ気づいていなかった。
「原田さん」
五メートルを切ったあたりで、涼也は声をかけた。
「どうして......」
立ち止まった原田が、強張った顔で固まった。
「嘘を吐いてすみません。書類に署名というのは口実で、本当の目的は抜き打ち訪問でした」
「抜き打ち訪問......」
呆然と立ち尽くす原田が、うわ言のように繰り返した。
「ええ。面談の段階で気になった方のお宅に、訪問することがあるのです」
「私のなにかが、引っかかったということでしょうか?」
涼也は頷いた。
「分譲マンションの二階でカフェレストランと自宅を兼用なさっているということと、幼い頃から犬を飼う環境で育ってきた原田さんが、三十五歳で結婚したのを機に二十三年間もペットを飼わなかったことです。だからといって、確信があったわけではありません。なんとなく、原田さんの言動に違和感を覚えただけです。ここは、分譲マンションではありませんよね?」
涼也の問いかけに、原田が力なく頷いた。
「カフェレストランも、経営なさってないですよね?」
質問を重ねる涼也に、原田がふたたび頷いた。
ここまでは、アパートを見たときに想像がついた。
いまだに確信が持てないのは......。
「......妻とも別居しています」
涼也が訊こうとしたことを、原田が自ら答えた。
「立ち話もなんですから、よかったらこちらへどうぞ」
涼也は、原田をバンへと促した。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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