168時間の奇跡第12回
☆
「おお、いい子だね。そうかそうか、私のところにくるかい?」
原田進太郎が、相好を崩してクリームの頭を撫でた。
目尻や頬の皺が、より深く刻まれた。
「開けましょう」
涼也は、サークルの扉を開けた。
勢いよく尻尾を振りながら飛び出したクリームが飛びつくと、原田が尻餅をついた。
「大丈夫ですか?」
「いやいや、お恥ずかしいところをお見せしてしまって。寄る年波には勝てませんな」
原田が苦笑いしながら、涼也の手を握り立ち上がった。
「寄る年波だなんて、まだ五十八歳じゃないですか」
お世辞ではなかった。
人生百年の時代、五十代は折り返し地点と言っても過言ではない。
だが、東京都の動物愛護相談センターの取り決めた里親資格の九項目の中の一つに、原則、都内にお住まいで二十歳以上六十歳未満の方、とあるように、原田も二年後には里親の資格を失ってしまう。
「まあ、数字だけで言えばそうですかな」
原田が言いつつ、腰を擦った。
「クリーム、お座り。行儀良くして、かわいがって貰いなさい」
涼也が命じると、クリームがお座りした。
「よっこいしょ......」
顔を顰めつつ原田が屈むと、関節が鳴る音がした。
「お前は日本犬なのに、人懐っこいなぁ」
目尻を下げ、原田がクリームの耳の下を揉んだ。
それから、原田はクリームに顔中舐められていた。
涼也は、敢えて止めることをせずクリームの好きにさせていた。
犬にとって、人間の顔......とくに口を舐めるのは親愛の表現であり、大事なスキンシップだ。
大事なのは、犬だけではない。
涼也にとっても、里親希望者と保護犬の相性をみるのに大事な時間だった。
見たいのは、相性だけではなかった。
涼也の経験上、表面的な犬好きは口を舐められるのを嫌がることが多い。
原田は、もう五分以上、集中的に口もとを舐められていた。
心から犬好きなのは、彼の接しかたでわかった。
だが、涼也の心は晴れなかった。
クリームとの相性も保護犬への愛情も問題はなさそうだった。
しかし......。
「ごめんな、クリーム。原田さんを、ちょっと借りるからね」
涼也は、クリームに優しく声をかけながらサークルに戻した。
「こちらへ、おかけください」
涼也は応接ソファに原田を促した。
ソファに腰を下ろす瞬間、ふたたび原田が顔を顰めた。
「クリームのこと、気に入りましたか?」
「はい、もちろんです。思った通り、賢そうな子ですね」
原田が、柔和に細めた眼でサークルに戻ったクリームをみつめた。
その眼差しは、優しさに満ち溢れていた。
彼の人柄なら、クリームを幸せにできる。
涼也は願った。
胸奥に芽生えた危惧の念が、自分の杞憂であってほしかった。
「決まりになっていますので、いくつかご質問させてください。まずは、お仕事のほうは順調ですか? 高円寺で、レストランを経営なさっているんでしたよね?」
「そんなたいそうなものじゃありませんよ。料理と言えば、オムライスやナポリタンを出す程度です。昭和の喫茶店ですよ」
「お店のほうは、ご夫婦でやってらっしゃるんですか?」
「ええ......まあ」
言葉を濁す原田に、いやな予感がした。
「今日、奥様はクリームに面会しなくてもいいんですか?」
「店を閉めるわけにはいきませんので......」
原田が、歯切れ悪く言った。
いやな予感に拍車がかかった。
「お店にご夫婦で出られている間、クリームの面倒はどなたが見るんですか?」
涼也は、気になっているうちの一つを訊ねた。
共働きの家庭で、成犬の場合は連日七時間以上留守番しなければならない環境ならば里親の申し出を断っていた。
因みに一歳未満の場合は、留守番の上限を四時間と設定している。
「店の奥が自宅になっていますので、いつでも様子を見に行けます」
「あれ? こちらのデータでは原田さんのご自宅は分譲マンションとなっていますが?」
涼也は、パソコンからスマートフォンに転送した原田のデータを見ながら訊ねた。
「あ、ああ......それは、その......マンションは二部屋ありまして、玄関寄りの部屋を店舗に、奥を住居にしているのです」
原田が、額に噴き出す汗をハンカチで押さえつつしどろもどろに言った。
「なるほど、安心しました。飼い主さんの声や匂いがするだけで、この子達の精神状態が落ち着きますから」
言葉とは裏腹に、涼也の胸内に暗雲が垂れ込めた。
だが、ここであまり細かく追及してしまうと、これからの質問にたいして警戒されてしまう。
「これまでにペットを飼われたことはございますか? 犬でなくても結構です。猫でも、オウムでも、ハムスターでも」
「幼少の頃に、実家で雑種を飼ったのが最初でした。それから、十代の頃に先代の柴犬、二十代の頃に二代目の柴犬、三十代の頃に三代目の柴犬を飼っていました。幸いなことに、みな、最期を看取ることができました」
原田が、歴代の愛犬に想いを馳せるように眼を細めた。
原田が、犬の扱いに慣れている理由がわかった。
「すべての飼い犬の最期を看取る......口で言うのは簡単ですが、なかなかできるものじゃありませんよ。因みに、最後のワンちゃんを看取ったのはいつですか?」
「三十五歳あたりでしたね」
「それから犬を飼わなかったのには、なにか理由があったんですか? もう、愛犬と別れるのはつらいとか......」
「それもありますが......翌年にいまの家内と結婚しまして、犬を飼うどころじゃなくなったのもあります」
原田が眼を伏せた。
理由としてはおかしなところはないが、原田のやましげな挙動が気になった。
「それでは、質問を進めます。喫煙者や動物アレルギーの方はいますか?」
「いえ、私は煙草も吸いませんし、もちろんアレルギーもありません」
即答する原田の次の言葉を、涼也は待った。
五秒、十秒......沈黙が続いた。
「あの......私、なにかおかしなこと言いました?」
原田が、怪訝な表情で涼也をみつめた。
「いいえ。原田さん以外の方はどうですか?」
「あ、ああ......家内も煙草は吸いませんしアレルギーもありません」
「すみませんが、コピーを取らせていただきたいので写真付きの身分証明書をお願いします」
「ワン子の里」では、里親希望者が本人であることを証明するために運転免許証、パスポート、マイナンバーカード等の写真付きの証明書の持参を義務付けている。
いずれも所持していない場合は、マイナンバーカードの発行手続きを済ませ送付されてから出直す決まりとなっていた。
どちらにしても里親希望者にたいしては、心変わりをしないかをたしかめるために日を空けて二度面接をすることになっていたので、そのときに間に合えば問題はない。
写真付きの身分証明書に拘るのは、他人を装い保護犬を引き取りどこかに転売したり、募金集めの客寄せに使う不逞の輩(やから)がいるからだ。
原田が、そういう輩でないのはわかっていた。
しかし、涼也の中にはこの犬思いの心優しい男に、別の懸念を抱いていた。
もしその懸念が現実になったとき、原田とクリームに悲劇が訪れることになる。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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