168時間の奇跡第28回
☆
外に出ると、夜風が心地よく頬を撫でた。
一雨降ったのだろうか、草と土の懐かしい匂いが鼻孔に忍び込んだ。
「お父さんが、改心してくれてよかったですね。でも、お酒をやめられるでしょうか?」
バンを停めている並木橋通りまでの道のりをゆったりした足取りで歩きながら、沙友里が充実感に満ちた顔で涼也を見上げた。
「亜美ちゃんのお父さんがアルコール依存症なら、禁酒は大変だと思う。重度になれば治療入院が必要になるほどだからね。だけど、親子で支え合っていけば、きっと乗り越えられると信じてるよ。まあ、でも、最低、三ヵ月は様子を見たほうがいいかな。あんこちゃんにとっても、いままで心に受けた傷を癒す時間が必要だしね」
「そうですね。身体、本当に大丈夫ですか? 夜間診療の病院で、診て貰ったほうがいいですよ」
沙友里が、一転して心配げな表情になった。
「ありがとう。亜美ちゃんのお父さんにも言ったけど、そう簡単には壊れない肉体だから大丈夫さ。それより、君を危険に巻き込んでしまったね。いつも、済まない。本当に、申し訳ない」
涼也は、感謝を込めた瞳でみつめつつ言った。
「そんな、水臭いこと言わないでくださいっ。所長のお力になれることが私の喜びでもあるんですから」
沙友里が、感謝とは違った種類の想いの籠った瞳で見つめ返してきた。
「うん、そう言って貰えて光栄だよ。でも、君の彼氏に申し訳ないから、ほどほどにね」
涼也は、敢えて言った。
沙友里に彼氏がいるかいないかは知らない。
だが、目的はそこではなく、涼也が沙友里に「彼氏」がいると思っていながら普通に接しているところを見せるのが重要だった。
「彼氏なんていません!」
強い口調で、沙友里が否定した。
「あ、ああ、ごめん」
「別に所長が謝ることではないですけど......私に、彼氏がいると思っていたんですか?」
沙友里が、複雑そうな表情で訊ねてきた。
「そんなに気にしていたわけじゃないけど、君みたいに器量よしで気立てもいい子なら、いないほうがおかしいかな......とか思ってさ」
涼也は、心の距離感を保ちつつ屈託のない笑顔を沙友里に向けた。
「本当にそう思ってくれています?」
沙友里が、試すような瞳で涼也をみつめた。
「もちろん、思っているよ」
「だったら、そんな気立てがよくて器量よしの女性を彼女にしたいとは思ったことないんですか?」
平静を装ってはいるが、沙友里の頬は赤らみ声は上ずっていた。
彼女がいまの言葉を口にするのに、相当な勇気が必要だっただろうことを涼也は悟った。
「婚約者がいるのに、ほかの女性のことをそんな眼で見るのは不謹慎だよ」
涼也は鈍感な男を演じ、あっけらかんとした口調で言った。
沙友里は「ワン子の園」の要と言える存在だ。
保護犬への愛情も深く、知識が豊富で仕事も早い。
この先、許されるなら何年でもボランティアを続けて貰いたい。
だからこそ、うやむやな態度を取り続けるわけにはいかなかった。
「私のほうが、所長のことを支えられる自信があります」
沙友里は涼也を直視し、きっぱりと言い切った。
誰より、とは言ってないが華と比べているのは間違いない。
「沙友里ちゃんは、ベストパートナーだよ」
お世辞ではなかった。
涼也は、心からそう思っていた。
「本当ですか!?」
沙友里の顔が、パッと輝いた。
涼也は笑顔で顎を引いた。
「親友でもあり、実の妹のようでもある」
「え......」
沙友里の顔から、輝きが消えた。
「じゃあ、私のことは......」
沙友里の声を、スマートフォンのバイブレーションが遮った。
ディスプレイに表示されていたのは、華の名前だった。
「もしもし?」
『いまどこ?』
電話に出るなり、華が訊ねてきた。
いつもの彼女より、声に余裕がないような気がした。
「渋谷だけど。どうしたの?」
『渋谷の「Dスタイリッシュ」ってペットショップ、沙友里ちゃんが働いている店じゃなかった?』
唐突に、華が訊ねてきた。
「そうだったと思うよ。いま、本人がいるから訊いてみようか?」
名前が出たことで、沙友里が自分の顔を指差した。
『待って! いまはなにも言わないで。沙友里ちゃんにわからないようにリアクションしてほしいんだけど、いい?』
「ああ、いいよ」
涼也は言いながら、右手で沙友里に待ってとジェスチャーした。
『「Dスタイリッシュ」の女社長、知ってる?』
「一度店舗に行ったときに偶然いたから、挨拶した程度だけど。その人がどうしたの?」
涼也は、沙友里の耳を意識しながら言葉をオブラートに包んだ。
『どんな人だった?』
「すごく穏やかで、人柄がよかった印象があるよ」
一年ほど前に、沙友里がトリマーをしているペットショップに行ったときに社長の長谷真理子と名刺交換した。
ボランティアとして働いてくれている沙友里の件で礼を言うと、奉仕活動をさせて貰っているこちらこそ感謝しています、と逆に恐縮された覚えがあった。
十分ほど話しただけだが、華にも言った通り真理子は好印象の女性だった。
『実は、明日、「Dスタイリッシュ」に視察に行かなければならないの』
「え? なんで?」
『社長が、売れ残った犬や猫を繁殖場の倉庫に閉じ込めて闇業者に高値で売っているという通報が入ったのよ』
「闇......どんな業者?」
涼也は、食い入るようにみつめている沙友里の視線に気づき言い直した。
『通報では、その闇業者が獣医学生の手術の練習台として大学病院に売ったり、製薬会社の新薬の実験用として売ったりしているらしいの。生後四ヵ月を超えて買い手のつかなくなった犬をやむなく大学病院や動物病院に提供しているペットショップはほかにもあるみたいだけど、「Dスタイリッシュ」の場合は取引の額が相場の何倍も高いということと、まだ三ヵ月も超えていない十分に売れそうな子犬を斜視だとかアンダーショットだとか、商品価値が下がりそうな要素がみつかると、積極的に闇業者に売っているみたいなの』
「まさか......」
涼也は、二の句が継げなかった。
あまりに残酷な話と記憶の中の優しそうな女社長とのギャップに、涼也は混乱していた。
「でも、君の管轄は東京じゃないだろう?」
我を取り戻し、涼也は疑問を口にした。
動物愛護相談センターが通報を受けてペットショップを抜き打ち調査や視察することは珍しくないが、華の勤務先はZ県だ。
『問題になっている「Dスタイリッシュ」の繁殖場がZ県にあるのよ。沙友里ちゃんから、ウチの社長は動物思いで尊敬できるって言っていたのを聞いたことがあってさ。なんだか、気が重くて。悪いけど、涼ちゃん、明日、一緒に視察に行ってくれないかな? まずは視察段階だし、いきなり繁殖場に行くと疑われてしまうから、渋谷の本店を様子見したいの。できたら沙友里ちゃんに事情を話して、協力して貰いたいんだけどさ。沙友里ちゃんが案内してくれたほうが、怪しまれずに店に行けるでしょう? 社長が不在だったら、バックヤードとかも見られるかもしれないし。涼ちゃんが言いづらいなら、私のほうから沙友里ちゃんに話すからさ』
「いや......僕から話してみるよ」
涼也は華に言いながら、怪訝そうな顔で聞き耳を立てている沙友里を複雑な心境でみつめた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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