168時間の奇跡第31回
「でも、そのお爺ちゃんには子犬を虐待した意識はないの。昔の、とくに田舎の人は外に繋いで飼うのをあたりまえに思っている人も多いし、栄養のバランスがどうとか考えないで残飯みたいな餌をやる人も珍しくなかった。友人の話では、子犬が悪戯(いたずら)してお爺ちゃんの雪駄(せった)を咬んでボロボロにした罰に竹の物差しで折檻されて、その傷から細菌が入って......。瀕死になっているところを、カラスに襲われたんだと思う」
「お爺ちゃんは、気づかなかったんですか!?」
沙友里が、涙声で訊ねた。
「昔の人は餌は一日一回が普通で、お爺ちゃんは散歩にも連れて行かなくて繋ぎっ放しだったから、子犬の容態の変化に気づかなかったみたいね。友人は、その一件で悟ったそうよ。人は、自分が見ている顔がすべてだとはかぎらない。人は、自分にとっては天使でもほかの人にとっても天使だとはかぎらない......ってね」
「細菌感染した子犬を外に放置するなんて......」
沙友里の言葉の続きが、嗚咽に呑み込まれた。
「沙友里ちゃん。長谷社長が、友人のお爺ちゃんのように別の顔があると言っているわけじゃないの。ただ、私はもう、あのときみたいな後悔はしたくないだけ」
涼也は、弾かれたように華を振り返った。
華の瞳にも、うっすらと涙が滲んでいた。
「え......もしかして、この話って?」
沙友里が、はっとした顔で華を見た。
「え? あ、ああ、違う違う。その友人の哀しむ姿を見て、という意味よ」
華が、慌てて笑顔で取り繕った。
この話は、涼也も聞いたことがなかった。
恐らく、憐れな子犬の飼い主は友人ではないだろう。
華にそういう過去があったとは......。
「友達の経験があったから、いまの仕事をやろうと思ったんですか?」
訊ねる沙友里の眼から敵意が消え、声からも棘がなくなっていた。
沙友里も、子犬の飼い主が友人ではないと悟ったのだろう。
「そうね。私一人の力なんてたいしたことないけど、虐待されたり捨てられたりする犬猫を一頭でも多く救いたい......それが原動力になっているのはたしかね」
華が、遠い眼差しで言った。
束の間、沈黙が続いた。
三人とも、会話をせずに時が流れた。
涼也は、子犬の憐れな最期を目撃したときの華の心の傷を考えていた。
想像するだけで、胸が張り裂けてしまいそうだった。
子犬の飼い主でもなくその現場を見てもいない涼也でさえそうなのだから、華の傷の深さは想像を絶する。
華は、沙友里に想いを伝えるために、心の奥底に封印してきた悪夢の思い出を話したに違いない。
「......私、視察に協力します」
膝の上で重ね合わせた手に視線を落としていた沙友里が、沈黙を破った。
「いいの?」
華が、念を押すように訊ねた。
「はい。私は、真理子社長を信じていますから」
沙友里が、視線を掌に落としたまま言った。
「なぜ、急に協力してくれる気になったの?」
「真理子社長の嫌疑を晴らすなら、潔白を証明するのが一番だと思ったんです。疚(やま)しいことがないなら、どれだけ探してもなにも出てこないはずですから。それに、華さんのお友達の話を聞いて考え直しました。人間に絶対はないかもしれない......そう思うことにしました。華さんの言うように、万が一の可能性を頭から否定して、物言えぬ小さな命を犠牲にしたくないですから」
顔を上げた沙友里が、華をみつめた。
「沙友里ちゃん......もし、あなたの大事な人が知らない顔を持っていたら? 私のほうから頼んでおきながらこんなことを言うのもなんだけど、嫌なら断ってくれてもいいのよ。長谷社長に報告したければしてもいいし、私はあなたを恨んだりしないわ」
華が、沙友里を気遣うように言った。
「いいえ、大丈夫です。私はそうじゃないと信じていますけど、もしもの場合は......」
沙友里が言葉を呑み込み、唇を噛み締めた。
「ゆっくり考えて、もう一度、明日返事をくれればいいわ」
華は言い残し、ソファから腰を上げた。
「沙友里ちゃん、華を送ってくるからちょっと待ってて」
涼也に続いて沙友里が立ち上がり、華に頭を下げて見送った。
「あとのことは、任せたわ。沙友里ちゃんを、頼むわね」
建物から出ると、華が足を止め涼也に向き直り言った。
「沙友里ちゃんの気が変わったらどうする?」
涼也は訊ねた。
「それなら、仕方ないわ」
「それでいいのか? 沙友里ちゃんが協力してくれたほうが、いろいろとやりやすいんだろう?」
「うん、それはそうだけど、無理強いはしたくないの。じゃあ、タクシーきたから。また、あとで連絡するね」
華は笑顔で手を挙げ、空車のランプを点したタクシーを停めた。
「華」
「なに?」
涼也が呼び止めると、後部座席に乗り込みかけた華が振り返った。
「あの子犬の飼い主って、君のことだろう?」
「友人の話だと、言ったでしょう?」
一瞬、真顔になったがすぐに微笑みを取り戻した華は後部座席に乗った。
「じゃあね」
窓越しに手を振る華......テイルランプが見えなくなるまでタクシーを見送った涼也は、ため息を吐いた。
自分は華のことを知っているようで、なにもわかってあげていなかった。
涼也は、胸のペンダントロケットを握り締めた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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