168時間の奇跡第46回
☆
「ねえ、涼ちゃん。今日で一週間ね。沙友里ちゃん、大丈夫かしら?」
華が、柴犬のリッキーのトイレマットを交換しながら心配そうに言った。
「尊敬してた女社長さんが売れ残った犬を処分していたなんて知ったら、そりゃあ、ショックっすよ。沙友里さんはああ見えて、繊細っすからね」
トイプードルのモモをブラッシングしていた健太が、話に横入りしてきた。
「あら、私だって社長がそんなことをしていたなんて、先輩と同じでショックです! でも、私まで引き籠っちゃったら、『ワン子の園』が回らなくなるから気力だけで頑張っているんですよ!」
保護犬達の給水器をチェックしながら、亜美が頬を膨らませ、健太を睨みつけ抗議した。
「怒らない、怒らない。亜美ちゃんが誰よりもナイーブで傷つきやすいことは、俺が一番知ってるからさ」
床をモップがけしていた達郎が、陽気な声で亜美を慰めた。
閉店後の「ワン子の園」のフロアには、華、達郎、健太、亜美が顔を揃えていた。
この四人が同じ時間帯に顔を揃えた理由は、沙友里だった。
――沙友里ちゃんには、昨日お二人にしたのと同じ内容のお話をしました。いろいろ考えたいことがあるからしばらく休みがほしいと言うので、許可しました。このまま、辞める可能性もあります。まあ、彼女がどういう決断を下したとしても、私には口を出す資格はありませんから。
「Dスタイリッシュ」で真理子から驚愕の真相を聞いた翌日に、彼女から電話がかかってきた。
沙友里は、真理子と話してから「ワン子の園」にも顔を出さずに連絡も取れなくなった。
携帯電話の電源も切られており、通じなかった。
亜美に案内されて沙友里の自宅にも行ったが、帰っている気配はなかった。
みな、沙友里の安否を気にしているのだ。
「真面目な話、警察に届けたほうがいいんじゃないっすか? 信頼している人に裏切られて思い詰めて......なんてこともありえますからね」
健太が心配そうに言った。
「沙友里さんは、そんな弱い人じゃありません!」
亜美が即座に否定した。
「どうして亜美ちゃんにそんなことがわかる......」
「亜美ちゃんの言う通りだ。動物に無償の愛を注げる沙友里ちゃんが、自らの命を絶ったりしないよ」
涼也は健太を遮り、諭し聞かせた。
「そうだよ。そんな不毛なことをくよくよ考える暇があったら、動物の世話をするような女性さ、沙友理ちゃんは」
達郎が、重々しい空気を振り払うように朗らかに笑った。
「私も、そう思います!」
亜美が嬉しそうに達郎に追従した。
「亜美ちゃんと健太は、もう上がっていいよ」
涼也は、保護犬の世話を続ける二人に言った。
スマートフォンのデジタル時計は、午後八時を過ぎたところだった。
「まだ、手伝うっすよ! 沙友里さんから連絡があるかもしれないし」
「私も、終電まで大丈夫ですから」
「いや、これから私用があるんだ。沙友里ちゃんに連絡が着いたらすぐに知らせるから、君達も彼女と連絡が取れたら教えてくれ」
涼也は、健太と亜美に言った。
これからのことに、二人を巻き込むわけにはいかない。
「了解です! じゃあ、お疲れ様っす!」
「沙友里さんの家に寄ってみます。では、お先に失礼します」
健太と亜美がフロアから出るのを見計らい、涼也は華と達郎を応接ソファに促した。
彼らには予め、工藤の件で話があると伝えていた。
「工藤を刑務所に放り込める証拠を掴んだ」
涼也は唐突に切り出し、「昭和興信」が調査した報告書のコピーを華と達郎に渡した。
「嘘でしょ......」
「おいおいおい、マジかよ」
華と達郎の顔色が変わった。
「そこにもあるように、工藤は犬猫の虐待以外にも刑事事件として立件できそうな罪を重ねている」
「ねえ、涼ちゃん。これ、どうやって調べたの?」
報告書から涼也に視線を移した華が、怪訝そうに訊ねてきた。
「知り合いの興信所に頼んだんだよ」
「どうして、興信所に知り合いなんているの?」
華には、街金融時代のことを詳しく話していなかったので訝しく思うのも無理はない。
「うん、以前やっていた職場時代に何度か調査を依頼したことがあってね」
「ああ、そう言えば、『ワン子の園』を始める前は金融会社に勤めていたんだったよね。いまの涼ちゃんからイメージ湧かないし、すっかり忘れていたわ」
華が口もとを綻ばせた。
その時代に、涼也が数多(あまた)の不良債務者を地獄に追い込んだと知ったなら、微笑みは瞬時に消えるだろう。
「もう、昔の話だからね。それより、これからの計画を話しておきたいんだ。まず、工藤の売春宿で働かされ客から金を脅し取っていた未成年の少女と、他の犬舎からチャンピオン血統の子犬を盗み出していた配下の一人を、証人として抑えてある」
「本当か!?」
達郎が、驚きに眼を見開いた。
「ああ。少しお金はかかったけど、こっちに寝返ってくれた。二人が警察に証言すれば、工藤の逮捕は間違いない」
「買春罪は未成年の少女は裁かれないからわかるとして、子犬を盗んだ配下は自分も罪に問われるのに、よく証言すると約束してくれたな」
達郎が釈然としないのは当然だった。
――子犬を盗むたびに罪の意識に苛まれていたらしく、逆にほっとしていました。どの道、自首を考えていたようです。
信二に受けた説明を、涼也は二人にした。
「追い風が俺達に吹いているってやつだな」
達郎が、ニンマリとした。
「なんだか、心配だな」
対照的に、華が不安げな顔を涼也に向けた。
「なにが不安なの? 悪党を捕らえる材料が揃ったっていうのにさ」
達郎が不思議そうに訊ねた。
「達郎君が言ったみたいに工藤は悪人だから、涼ちゃんに危害を加えないかが不安なのよ。ヤクザとか怖い人達がついているかもしれないでしょ?」
「ああ、そういうことね。こいつは大丈夫だよ」
あっけらかんとした口調で、達郎が言った。
「なんで、そう言い切れるのよ?」
憮然とした表情で、華が達郎に訊ねた。
「だって、こいつは昔そういう輩......」
涼也は、テーブルの下で達郎の爪先を踏んだ。
「昔はそういう輩......の先はなによ!?」
華が、達郎に詰め寄った。
「いや、その......それはさ、こいつはそういう輩が大嫌いで近寄らなかったんだけど、里親施設の長となったいまは、虐待されている子犬のために恐れず立ち向かうってことを言いたかったんだよ」
しどろもどろながら、達郎がなんとかごまかした。
取り立ての際に、不良債務者がヤクザや右翼を連れてくることは珍しくなかった。
だが、涼也は怯むことなく取り立てた。
一度でも例外を認めたならば、噂はあっという間に広がり踏み倒す客が続出する。
街金の世界には、押しても駄目なら引いてみな、という諺(ことわざ)は通用しない。
引いてしまえば、相手がグイグイと踏み込んでくるだけだ。
「涼ちゃん、とにかく無茶はやめて。立ち入り検査と子犬の保護の許可は上司に取ってあるから、ここまでにしよう。あとは私がやるから」
華が、諭すように涼也に言った。
「僕を気遣ってくれるのはありがたいけど、それはできない。子犬を保護しても、工藤が捕まらなければ同じことが繰り返される。君も、そう言っていたじゃないか」
「たしかに、そのつもりだったわ。でも、涼ちゃんを危険な目にあわせるわけには......」
「僕を信用してほしい」
涼也は、華の言葉を遮りみつめた。
「信用しているわ。私は、涼ちゃんの身になにかがあったら心配だから言ってるのよ」
「大丈夫。心配しなくてもいいよ。君が思っているよりは、頼りになる男だよ」
「だけど......」
「華ちゃん、本当に心配ないって。涼也が街金融をやっていたのは知っているだろう?」
達郎が言うと、華が頷いた。
涼也は、もう止める気はなかった。
できれば過去のことは華に知られたくはなかったが、工藤の件を納得させるには仕方がなかった。
「こいつは街金融時代に、リカオンと呼ばれていたんだよ」
「リカオン? なにそれ?」
聞きなれない言葉に、華が達郎に訊ね返した。
「リカオンはアフリカのイヌ科の動物で、狩りの成功率は肉食動物一なんだよ。ライオンやチーターの成功率が二、三十パーセントなのにたいして、リカオンの狩りの成功率は驚異の八十パーセントにも上ると言われている。涼也は取り立ての回収率が高かったから、そういう呼称がついた。それだけじゃない。当時のこいつは怖いもの知らずで、相手がアンダーグラウンドの住人でも容赦なく取り立てた。だから、工藤みたいな輩は大好物なんだ」
「おいおい、その言いかたは誤解を招くからやめてくれ」
すかさず、涼也は達郎に抗議した。
「知らなかった......。涼ちゃんに、そういう過去があったなんて」
華が、複雑な色の浮かぶ瞳で涼也をみつめた。
出会いは学生時代だが街金融に勤務しているときには交流がなかったので、華が知っている涼也は「ワン子の園」の動物想いの男性だ。
「ごめん、隠しているつもりはなかったけど、なんか言い出しづらくてさ」
「別に謝る必要はないよ。たしかにびっくりしたけど、私がつき合っているのはいまの涼ちゃんだから、過去がどうであろうと関係ないわ。それに、そのときやっていたのがたまたまそういう仕事だっただけで、涼ちゃんは全力で仕事に取り組んでいただけ。あなたは、不器用でまっすぐな人だから。そういうところが、好きになった理由だけどね」
華が、はにかみながら微笑んだ。
「おやおや、勘弁してくれよ。のろけなら、二人のときにやってくれ」
達郎が呆れたように肩を竦めて見せた。
「さあ、話を続けよう。明日、まずは動物愛護管理法の虐待罪で犬達を保護する。センターの職員は何人で行くつもり?」
涼也は、華に訊ねた。
「私を含めて三人の予定よ」
「犬の数によっては人手が足りないかもしれないから、そのときは手伝ってあげてくれないか?」
涼也は、達郎に視線を移した。
「わかった。お前はどうするんだ?」
「僕は工藤を抑えるよ。罪状を突きつけ、自首を促す」
「応じなかったら? というか、一筋縄ではいかない悪党みたいだし、応じない可能性のほうが高いだろう?」
「いま頃、例の興信所の調査員が調査報告書と証人を伴ってZ警察署に工藤を告発しているから、明日には署員が乗り込むはずだよ。僕の役目は、工藤を逃さず署員に引き渡すことだ」
「昔みたいに、サバイバルナイフを懐に忍ばせたほうがいいんじゃないか?」
「え!? ナイフ!? 涼ちゃん、そんなもの絶対だめだよ!」
達郎の冗談を真に受けた華が、血相を変えて言った。
「ほら、お前の悪乗りが過ぎるから華が心配してるじゃないか」
涼也は、達郎を睨みつけた。
もちろん、本気で怒っているわけではない。
達郎が、場の空気を和ませようとそうしているのがわかっているからだ。
「そうなの!?」
今度は、華が達郎を睨みつけた。
「おおっ、怖っ! 一気に、アウェーになっちゃったよ」
大袈裟に怖がる達郎の背中を、華が平手で叩いた。
身悶えする達郎を横目に、涼也は着信履歴に表示される沙友里の番号をタップした。
オカケニナッタデンワハデンゲンガハイッテイナイカ......
涼也は電話を切り、ふたたび沙友里の番号をタップした。
繰り返されるコンピューター音声――涼也はため息を吐いた。
「出ない?」
沙友里が心配そうに訊ねてきた。
「電源が切られたままだよ」
涼也は、力なく言った。
「もしかして......」
華が、口にしかけた言葉を呑み込んだ。
彼女が言わんとしていることが、涼也にはわかった。
「真理子社長に言い残した通り、考える時間がほしいんだろう。そのうち、ひょっこり顔を出すさ」
涼也は、努めて明るい声で言った。
空元気ではなく、信じていた。
沙友里は、自棄(やけ)になり命を粗末にするような無責任な女性ではない。
「そうよね。長谷社長だって、子犬達をスタッフに内緒で飼育していたのもブローカーに引き渡していたのも、最悪な状況を回避するための苦肉の策だものね」
「うん。時間はかかるかもしれないけど、沙友里ちゃんならきっと理解してくれるさ」
涼也は、願いを込め自らにも言い聞かせた。
「それにしても、未出荷の子犬を鮨詰めの環境で餌も水もあげずに死なせた挙句、生ゴミみたいに捨てるなんて......工藤って男は鬼畜だな」
達郎が、真理子が盗撮していた「キング犬舎」の子犬達の凄惨な画像を見ながら吐き捨てた。
「絶対に、明日、工藤って男を刑務所にぶち込む!」
唐突に達郎が言いながら、掌を下に向けて右手を伸ばした。
「すべての子犬達を救ってみせるわ!」
華が達郎の手の甲に右手を重ねた。
涼也は無言で華の手に掌を載せ、二人を交互にみつめて力強く頷いた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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