168時間の奇跡第27回

「亜美ちゃん......馬鹿なことは......やめるんだ......」
 涼也は掠れた声で諭しながら、懸命に上体を起こした。
 背中を痛打したせいで、下半身に力が入らず立ち上がることはできなかった。
「これ以上、お父さんを嫌いになりたくない! 私が幼い頃のお父さんは、悪者から弱い立場の人達を守るヒーローだった。いまは、物言えない動物を虐待したり、あんこを助けようとしてくれている人を口汚く罵り暴力を振るったり......大人の私の瞳に映っているのは、正義のヒーローじゃなくて酒浸りの悪者よ!」
「亜美っ、そいつをこっちに渡すんだっ」
 博司が、右手を差し出しつつ亜美に歩み寄った。
「こないで! 一歩でも近づいたら、刺すから!」
 亜美の金切り声が、室内の空気を切り裂いた。
「亜美......」
 博司が立ち止まり、強張った表情で絶句した。
「お酒をやめて、あんこに二度と暴力を振るわないって約束してくれなきゃ......本当に、死ぬから! でも......昔のお父さんに戻ってくれるのなら、ペットショップも『ワン子の園』も辞めるわ」
 亜美が、涙ながらに訴えた。
「亜美ちゃん、どうしてあなたが......」
「わかった......わかったから、そいつをこっちに渡すんだ」
 沙友里を遮り、まるで立て籠もり犯を説得するように宥(なだ)める博司は、ついさっきまで傍若無人な言動に終始していた泥酔男とは別人のようだった。
「もう、酒はやめるから! それと、あんこにもひどいことをしないと、約束する!」
 その顔は、すっかり父親のものになっていた。
 信用できると、涼也は確信した。
 いまの発言がシラフに戻ってからのものなら、逆に信用できなかった。
 酔っていないときの博司は至って常識人なので、これくらいの約束は平気でできる。
 だが、酔えば理性を失い豹変するのが問題だったのだ。
 数分前まで聞くに堪えない暴言を吐き暴力を振るっていた泥酔状態で、素に戻るというのは嘘でできることではない。
「その言葉を、信用してもいいんですか?」
 涼也は、博司に念を押した。
「ああ、本当だ。娘が死のうとしているときに、嘘は吐かない。たしかに俺は大酒飲みで禁酒は楽じゃないが、亜美の命とは比べようもない」
「亜美ちゃん。お父さんもこう言ってる。鋏を、沙友里ちゃんに渡してくれないか」
 涼也は、亜美の瞳をみつめながら言った。
「所長は......お父さんのこと、信用できると思いますか?」
 喉に鋏の刃先を突きつけたまま、亜美が涙声で訊ねてきた。
「ああ、信用できると思うよ。これだけ酔っぱらっているときに、君の話に耳を傾けてくれたんだからね」
 涼也は言うと、亜美に向かって頷いて見せた。
 亜美も頷き、沙友里に鋏を渡した。 
 鋏を受け取ると、沙友里が亜美を抱き締めた。
 博司が、安堵の息を吐きつつ腰から崩れ落ちるように座り込んだ。
「悪かったな。そして、ありがとう」
 バツが悪そうに、博司が詫びと礼の言葉を口にした。
「わかってくれて、嬉しいですよ」
 涼也は、博司と向き合う格好で胡坐(あぐら)をかいた。
「ただし、まだ、問題は解決していません。あんこちゃんは、この家にお返しできません」
「俺が娘に約束した言葉が、嘘だというのか?」
 博司が、怪訝な顔で訊ねた。
「いいえ。お父さんがお酒をやめてあんこちゃんに暴力を振るわないと決意した気持ちは信じています」
「だったら、とうして?」
「決意したからと言って、決意が続くとはかぎりません。お父さんの場合、飲酒が悪の根源です。なので、万が一、禁酒を破った場合には必然的にあんこちゃんにたいしての約束も守られなくなる可能性が高いということです」
 涼也は、敢えて厳しい口調で言った。
「自分のやってきたことを考えると、そう思われても仕方がないな」
 博司が、力なくうなだれた。
「もちろん、ずっとというわけではありません。一定期間様子をみさせて頂いて、お父さんの決意が本物だと証明できたら、あんこちゃんをお戻しします」
 涼也の言葉に、博司が弾かれたように顔を上げた。
「いいのか?」
「お父さんのためじゃなく、亜美さんのためです。『ワン子の園』にこなくなったら、あんこちゃんと会えなくなりますからね」
 涼也は、亜美に微笑みかけた。
 亜美は必要な人材であり、引き止めたいのは山々だが、彼女なりに父親の気持ちを汲んでの決意なので尊重してやりたかった。
 それに、せっかく修復に向かいそうな父娘の関係を壊したくはなかった。
「所長......ときどきは、遊びに行ってもいいですか?」
 亜美が、涙声で訊ねてきた。
「なにを言ってるんだ。あたりまえじゃないか! 君がボランティアじゃなくなっても、『ワン子の園』の家族であることに変わりはないんだから。遠慮しないで、いつでもおいで」
「ありがとうございます......ありがとう......ございます......」
 涼也が言うと、亜美が掌で顔を覆い号泣した。
「所長、亜美ちゃんは、ペットショップも『ワン子の園』も本当に辞めなきゃいけないんですか!?」
 沙友里が、悲痛な顔で訊ねてきた。
「彼女の意思だからね。僕らが決めることじゃないよ」
「亜美ちゃんの意思じゃなくてお父さんの......」
「沙友里ちゃん。そのお父さんの気持ちを受け入れたことも含めて、亜美ちゃんの意思なんだよ。僕らは、彼女の選択を見守ってあげようじゃないか」
 本音だった。
 親子にしかわからない、気持ちの交流がある。
 端からみたらどうしようもないアル中でも、亜美にとっては男手一つで育ててくれたかけがえのない父親なのだ。
「すみません......所長も沙友里さんも私とあんこのためにここまでやってくれているのに......勝手を押し通してしまって......」
 亜美が嗚咽交じりに言うと、ふたたび号泣した。
「別に、亜美ちゃんが謝ることじゃないのよ」
 沙友里が抱き締めた亜美の背中をポンポンと叩き、貰い泣きしながら言った。
「では、とりあえず僕達はこれで失礼します。あんこちゃんの件は、また、後日報告を入れます」
 涼也は立ち上がろうとしたが、足が痺れてよろめいた。
 尻餅をつきそうになった涼也の手を、博司が掴み引き上げた。
「ありがとうございます」
「礼なんかやめてくれ。俺は所長さんにひどいことをしてしまったんだからな。治療費を払うから、病院に行ったら請求してくれないか?」
「お父さんには負けますが、僕の身体もかなり頑丈にできていますからご心配なく」
 涼也は、笑って受け流した。
 博司を安心させるための痩せ我慢ではなく、学生時代に齧ったラグビーでは肋骨を折ってもそのまま練習に参加していたこともあった。
「いや、俺はとんでもないことをやってしまった......本当に、済まない」
 博司が、頭を下げた。
「やめてくださいっ、お父さん......」
 涼也は、慌てて博司の頭を上げさせた。
「この家に戻ってくるまで、あんこの世話をしっかりやれよ」
 上げた顔を亜美に向けた博司が、唐突に言った。
「え......私、『ワン子の園』のボランティアを辞めるから、あんこの世話はできないわ」
 亜美の表情に、困惑の色が浮かんだ。
「お前が辞めたら、誰があんこの世話をするんだ? それに、急にお前がいなくなったら、捨てられたんじゃないかとあんこが不安になるだろう?」
「じゃあ......私は、辞めなくてもいいの?」
 狐に摘ままれたような顔で、亜美が伺いを立てた。
「何度も言わせるな。一生懸命働いて、所長さんと先輩に恩返しをしろ」
 言葉こそぶっきら棒だが、娘を見る博司の眼は柔和に細められていた。
「お父さん、ありがとう!」
 亜美が、博司に抱きつき泣きじゃくった。
「おいおい、子供じゃないんだからやめろ......」
 博司が、涼也と沙友里をちらちらと気にしながら照れ臭そうに言った。
「亜美ちゃん、僕達は帰るから。明日、また会おう。あんこちゃんのことは気にしなくていいから、今夜は父娘(おやこ)水入らずでゆっくりして」
 気を利かした涼也は亜美に言い残し、沙友里を促し部屋を出た。
玄関まで見送りに出てきた父親と娘が、深々と頭を下げて涼也と沙友里を見送った。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

Newest issue最新話

Backnumberバックナンバー