168時間の奇跡第17回
☆
タクシーが到着するなり、涼也は五千円札をトレイに置いて後部シートを飛び出した。
釣銭を運転手から受け取った健太と達郎が、少し遅れて涼也のあとに続いた。
涼也は、「ワン子の園」の建物に駆け込むとスマイルのサークルに走った。
「あ、所長!」
沙友里が、半泣き顔で振り返った。
「スマイル......」
涼也は、点滴スタンドに繋がれ毛布の上でぐったりと横たわるスマイルの脇腹が上下しているのを確認し、胸を撫で下ろした。
「先生、スマイルの容態は!?」
かかりつけの獣医に、涼也は訊ねた。
「多臓器不全による癲癇(てんかん)発作で倒れたものと思われます」
「多臓器不全......どうして急に......」
涼也の頭は、真っ白に染まった。
スマイルは三年前......九歳の頃に動物愛護相談センターから引き取った雄のゴールデンレトリーバーで、これまで病気らしい病気をしたことがない健康な犬だった。
いつも舌を出し、穏やかな笑顔でいることからスマイルと涼也が名付けた。
本当の名前は知らない。
スマイルは、ある十二月の朝、動物愛護相談センターの敷地にリードで繋がれ放置されていたという。
高齢のスマイルは氷点下の外気に震えており、職員の発見があと十分遅れたら凍死していた可能性もあった。
初めて動物愛護相談センターでスマイルと出会ったときのことを、涼也はいまでも忘れない。
涼也がサークルの前に歩み寄ると、スマイルはいきなり後肢で立ち上がり飛び跳ねながらくるくると回り始めた。
恐らく、飼い主に仕込まれたのだろう。
そして、この芸をすれば飼い主が喜んで褒めてくれたに違いない。
そのとき、涼也は不意に涙が込み上げた。
悲壮感に溢れた表情の保護犬達を数多く見てきたが、そんなことは初めてだった。
悲壮感のかけらもないスマイルの陽気な姿が、逆にせつなかった。
スマイルが捨てられた理由はわからない。
飼い主が経済的に困窮したのか、病気になったのか、亡くなったのか、老犬になり世話が大変になったからなのか......人間側の理由が正当であれ不当であれ、犬達にとっては大好きな飼い主に会えなくなったという戸惑い、不安、哀しみがあることに変わりはないのだ。
涼也は、スマイルを引き取ることを即決した。
正直、九歳のゴールデンレトリーバーに里親希望者が現れる可能性は低いと......犬生の最期を、「ワン子の園」で迎えさせることになるかもしれないという覚悟をした。
それでも、犬の年齢を気にせずにスマイルの性格を気に入ってくれる人が現れるのではないかという希望は捨てていなかった。
そんな涼也の願いが通じ、スマイルを引き取って一年が経つ頃に里親希望者が現れた。
石田という、歌舞伎町のホストだった。
石田は無類の愛犬家で、中でもゴールデンレトリーバーが大好きだという。
涼也も舌を巻くほどの知識を持ち、面会中もスマイルを優しい眼差しでみつめていた。
直感で、本当に犬好きの青年だとわかった。
年齢を気にせずにスマイルを飼いたいというのも、証の一つだった。
当時スマイルは十歳。石田の申し出は願ってもないことだった。
だが、悩みに悩んだ末に涼也は石田を断った。
理由は、石田の不安定な仕事だった。
ホストという職業柄、夕方に家を出て帰ってくるのは翌日の昼頃ということも珍しくはない。
しかも、酒を飲まなければならない仕事なので酔っている可能性が高い。
豊富な運動量が必要なスマイルに、十分な散歩をしてあげられないだろうというのが一番の理由だった。
散歩だけではなく、スキンシップの時間も取れないのではないかという不安があった。
石田が一人暮らしでなければ......同居者が犬好きで一緒にスマイルの世話をしてくれるのならば、多少の心配はあってもスマイルを送り出したかもしれない。
心のどこかで涼也は、石田の若さを心配していた。
飽きてしまうのではないか、スマイルが負担になり動物愛護相談センターに連れて行くのではないか......と。
鼻孔に忍び込む異臭、敷きっぱなしの布団で横になった黒い子犬、そこここに撒き散らされた糞尿、畳に転がった空のボウル、痛々しく浮いた肋骨......。
涼也は慌てて、開きそうになる封印していた記憶の扉を閉めた。
里親希望者に厳しくなってしまうのは、涼也が街金融に勤めていた時代に取り立てに行った債務者の飼い主に捨てられ、密室で孤独のまま置き去りにされ衰弱しした、黒いラブラドールレトリーバーの子犬の姿が脳裏に焼きついているからだった。
石田を断ってから半年が過ぎても、スマイルの里親になりたいという者は現れなかった。
ずっと、心の奥底に燻(くすぶ)っていた後悔――石田を断ってしまった後悔。
涼也は、半年ぶりに石田に連絡を取ってみることを決意した。
自分が断っていながら、虫のいい話だとわかっていた。
しかし、スマイルの限られた犬生を考えれば、恥を忍んで石田に頭を下げることも厭(いと)わなかった。
――すみません、断られちゃったんで、もう、別のゴールデンを飼ってます。さすがに、ゴールデン二頭飼いは手が回らなくて......。
石田は半年の間に別のボランティアセンターから、保護犬のゴールデンレトリーバーを譲り受けていた。
涼也の危惧していた散歩も世話も、きちんとやっていた。
なにより驚いたのは、石田は犬と過ごす時間を増やすためにホストをやめて、それまでに貯めたお金でシルバーアクセサリーのオンラインショップを始めていた。
ホストという職業と年齢の若さにたいしての先入観で、スマイルの里親は無理だと......スマイルがふたたび傷つくのではないかと、勝手に決めつけていた。
違った。
石田のスマイルにたいする愛情は本物だった。
自分は彼の気持ちを信じることができず、スマイルの幸せな犬生を奪ってしまったのかもしれない。
「検査をしてみなければ断定はできませんが、恐らく細菌感染したものと思われます」
「細菌感染ですか!?」
獣医師の声で、涼也は我に返った。
「ええ。高齢になると、人間と同じで犬も免疫力が落ちます。散歩中に嗅ぐ他の犬のマーキング、他の犬の便、水溜まり、ゴミや落ち葉......あらゆるものから細菌感染する危険性があります。スマイルちゃんの症状から察して、敗血症の疑いがありますね」
「敗血症......」
涼也は絶句した。
敗血症は血液中やリンパに細菌が入り込むことにより発症し、罹患(りかん)するとほとんどは死に至る恐ろしい病だ。
「先生っ、スマイルは助かりますよね!?」
涼也は、ありったけの祈りを込めた瞳で獣医師をみつめた。
「今夜を越すのは、難しいかもしれません」
獣医師が、物静かな口調で言った。
「そんな......スマイル......ごめんな」
涼也はサークルの扉を開け、スマイルの苦しげに上下する脇腹を撫でつつ詫びた。
「俺のせいで......あのとき、俺がお前を送り出していれば......」
一日たりとも忘れたことのなかった後悔が、涼也の心に津波のように押し寄せてきた。
「あのとき送り出しておけばって、スマイルに里親希望者がいたんすか?」
背後で、健太の声がした。
「ああ、お前が『ワン子の園』に入る前にな」
達郎が答えた。
その後の二人の会話は、耳を素通りした。
「スマイル......まだ、まだだよ。僕はお前に、なにもやってあげられていないんだから......」
涼也は、スマイルに語りかけた。
スマイルが助かるなら、寿命が短くなっても構いません。
スマイルが助かるなら、腕でも足でも差し出します。
スマイルが助かるなら......。
神に祈った......思いつくかぎりの交換条件を口にした。
スマイルに犬生をやり直させてくれるなら、なにを犠牲にしてもよかった。
このまま逝ってしまえば......捨てられ、傷ついたスマイルが幸せを掴むチャンスを潰し、生涯を保護犬施設で終わらせてしまうことになる。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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