168時間の奇跡第26回
「お父さん、落ち着いてください。僕が説明しますから、とりあえず座って貰えますか?」
涼也は、沙友里を庇うように歩み出た。
「盗人の説明なんか、聞く必要はない! いますぐ犬を返すか、ブタ箱に入りたいかどっちがいいんだ!? おお!?」
酒臭い息を振りまき凄んでくる博司からは、警察官の片鱗(へんりん)も窺えなかった。
「ご自分に自信があるのなら、僕の話を聞いてくださいっ。その上で僕が間違っていたら、あんこちゃんをすぐにお戻しします」
涼也はきっぱりと言い切り、強い意思を宿した瞳で博司を見据えた。
「盗んだ犬を返すのは当たり前だっ。盗人は、逮捕しなきゃならないんだよ! 現行犯逮捕ーっ!」
博司が右手を伸ばし、物凄い握力で涼也の胸倉を掴むとニヤリとした。
「お父さんっ、暴力はやめて!」
亜美が博司のランニングシャツを掴み引っ張った。
「これは暴力じゃねえっ。父さんは、犬泥棒を逮捕したんだ! 現行犯逮捕ーっ!」
博司がふたたびふざけた口調で叫ぶと、高笑いした。
「そんなに酔っぱらって、恥ずかしくないの!」
「立派な刑事を父親に持って、なにが恥ずかしいんだ! 俺はな、毎日毎日、国民の安全を守るために危険と背中合わせに戦ってるんだぞ!? 犯人は拳銃やナイフを持ってるかもしれないし、こっちは命懸けなんだっ。若造の腰かけ署長に偉そうに説教されても、ぐっと堪えて犯人を追ってるんだよ! なんでこの俺が、現場を知らないクソガキにあれこれ指図されなきゃならないんだ! ああ!?」
博司が腕を引き、涼也に酒臭い顔を近づけた。
途中から脈絡なく無関係な話に飛ぶのは、酔っぱらいの典型的なパターンだった。
シラフの際に品行方正を求められる職業柄、酒で箍が外れてしまうのだろう。
「なにわけのわからないことを言ってるのよ!? どこが立派な刑事よっ。ただの酔っぱらいじゃない!」
「親に向かって、その口の利きかたはなんだ!」
博司が、亜美を突き飛ばした。
「亜美ちゃん! 大丈夫!?」
尻餅をつく亜美に、沙友里が駆け寄り抱き起こした。
博司のランニングは破れタスキ掛けになり、分厚い大胸筋と太鼓腹が露出していた。
「そうやって、いつも娘さんとあんこちゃんに暴力を振るってるんですね?」
涼也は、必要以上に博司を刺激しないように冷静な声音で言った。
亜美の父親と喧嘩をしにきたわけではなく、虐待が事実なら説得してあんこを保護するのが目的だった。
「お前に、俺のなにがわかるんだよ! ああ!? 捨て犬預かって商売にしてる奴が、利いた風なことを言うんじゃない!」
博司が右手一本から両手で胸倉を掴み、激しく前後に動かした。
「所長から手を離してください!」
博司を止めようとする沙友里を、涼也は右手で制した。
酒の勢いで力の加減がわからなくなっているので、下手に絡むと怪我をする可能性があった。
「だったら、教えてください。なにが不満で、あんこちゃんに暴力を振るうのかを......」
涼也は言いながら、博司に見えないようにヒップポケットから抜いたスマートフォンを沙友里のほうに投げた。
涼也はボランティアスタッフに、虐待をしている場面に遭遇したときに、可能ならば動画撮影をするように指導していた。
犬を保護するときに、現行犯でないかぎり飼い主に虐待されているという証明が必要になるからだ。
いま博司はあんこに暴力を振るっているわけではないが、会話の内容や涼也への言動で十分に飼い犬にたいして虐待が行われていることを立証できる。
「いいか!? 犬泥棒っ、よく聞け! 俺がやってるのは虐待じゃなくて躾だっ、躾! 子供が悪いことをしたら叱ったり、場合によっちゃ叩いたりするだろうが!?」
博司の飛沫が、涼也の顔面を濡らした。
「あんこちゃんが、お父さんに叩かれたり蹴られたりするような、どんな悪さをしたって言うんですか!?」
「どんな悪さをしただと!? ウチの娘の人生を台無しにした罰に、決まってるだろうが!」
「あんこちゃんが亜美さんの人生を台無しにしたとは、どういう意味ですか?」
「お前らのところで働いてることだよ! 俺はな、娘に犬ころの毛を刈ったり糞小便の世話させるために育てたんじゃない! 亜美には看護師や警察官みたいな安定した仕事に就いてほしかった......それを、犬ころやお前らがめちゃくちゃにしたんだろうが!」
博司が怒声を浴びせつつ、物凄い力で涼也の胸倉を引き寄せた。
「あんこちゃんには、なんの責任もありません!」
「責任は大ありだ! 犬ころなんかに現(うつつ)を抜かさなかったら、娘が道を踏み外すことはなかった! 親として、娘の仇(かたき)を許せないのは当然だろう!」
「どうしてそんなふうに思うんですか!? ペットショップや保護犬ボランティアは、恥じるような仕事ではありません!」
「片や安月給、片やタダ働き......これのどこが、恥じる仕事じゃないというんだ!」
「お父さんは、なぜ警察官になったんですか? お金や安定のためですか? 違いますよね? 国民の安全を守るために警察官を志した......そうじゃないんですか!?」
涼也は、祈りを込めた瞳で博司をみつめた。
「お、俺のことは関係ない......」
「あります! 亜美さんもお金のためじゃなく、一頭でも多くの犬猫を守るために誇りを持ってペットショップや保護犬ボランティアで働いているんですっ。亜美さんは、お父さんの血を引いた正義感に溢れた誇らしい娘さんですよ!」
涼也の言葉に、胸倉を掴む父親の握力が弱まった。
「俺は、とんでもない過ちを......」
博司がうなだれ、声を絞り出した。
「お父さん、わかってくだされば......」
「なーんて、心打たれて反省するとでも思ったか!」
嬉々とした顔を上げた博司の握力が増し、涼也の踵(かかと)が浮いた。
「あんな不細工な犬は、お前にくれてやるっ。その代わり、亜美には犬ころの仕事を一切やめさせるからな!」
「お父さんっ、あんこは物じゃないのよ! それに、勝手なこと言わないで! 私は、ペットショップも『ワン子の園』もやめるつもりはないわ!」
「お前は黙ってろ! いいな!? 今日かぎりで、亜美はお前らと縁を切る!」
「それは、亜美さんが決めることですっ」
涼也は、父親から視線を逸らさずに言った。
「娘の将来は、親である俺が決めるんだよ!」
「親であっても、子供の自由意思を奪う権利はありません!」
「わかったふうなことを言うな!」
視界が回転した――涼也は、柔道技の払い腰で床に叩きつけられた。
背中に激痛が走り、下半身が痺れて力が入らなかった。
圧迫される胸......博司が馬乗りになっていた。
「これ以上、娘にかかわるとどんな手段を使ってでもブタ箱にぶち込むぞ! おお! それが嫌なら、二度と娘に近づくんじゃない!」
「さっきも言いましたが......それは、娘さんが......決めることです。それに......あんこちゃんは、言われなくても......ウチで保護します。あなたに......戻せないことが......はっきり......しました......」
切れ切れの声で、しかしきっぱりと涼也は言った。
「この野郎っ、まだ、懲りないか! 盗人猛々(ぬすっとたけだけ)しいとは、お前のことだっ。気が変わった! 俺の犬をすぐに連れてこい! 俺がこの手で、保健所に連れて行ってやる! さあ、早く返せ! 俺の犬を、いますぐ返せ! いますぐ返せ! いますぐ返せ!」
博司が胸倉を掴んだ腕を前後させるたびに、涼也の後頭部が床に打ちつけられた。
「あんこちゃんは......ウチで保護します......あなたには......」
「まだ言うか! いますぐ......」
「やめないと死ぬわよ!」
博司の腕が止まった。
「おいっ、亜美......なにをやってるんだ!」
博司が弾かれたように立ち上がった。
酸素が、一気に肺に流れ込んできた。
「亜美ちゃん! やめて!」
沙友里の絶叫が、遠のきそうになった意識を引き戻した。
涼也は、首を擡(もた)げぼんやりとした視線を巡らせた。
視覚のピントが合った涼也の眼に飛び込んできたのは、鋏(はさみ)の刃先を己の喉元に突きつける亜美の姿だった。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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