168時間の奇跡第15回


     ☆

「どうして事実と違う内容で面談にいらっしゃったのか、説明して頂けますか?」
 バンの後部座席に並んで座る原田に、涼也は穏やかな口調で訊ねた。
「そうっすよ。マンション所有もカフェレストラン経営も奥さんの件も、嘘だらけじゃないっすか! 原田さんのやってることは、詐欺......」
「お前は口を挟まないで黙ってなさい」
 運転席から振り返り原田を咎める健太を、涼也は窘(たしな)めた。
「いや、でも......」
「すみません。お話をどうぞ」
 不満を口にしようとする健太を遮り、涼也は原田を促した。
「分譲マンションを持っていたのも、カフェレストランを経営していたのも本当でした。それも、都内に三軒です。ただし、マンションの名義もカフェレストランの経営者も家内でしたが......」
 原田が、消沈した声で語り始めた。
「差し支えなければ、奥様と別居した経緯をお話し頂けませんか?」
「お恥ずかしい話ですが、些細なことが理由なんです。結婚当初から、地主の娘だった家内と小学校の教師の父を持つ家庭で育った私は、いまでいう格差婚ですべての主導権を握られていました。当時は細々ながら文具店を経営していたのですが、そんな地味で面白味のない店はさっさと畳んで、義父がプレゼントしてくれたレストランをやれと......。小さいながらも愛着のある仕事でしたが、家内の意見に逆らう立場ではありませんからね。結婚を機に犬を飼わなかったのも、家内が幼い頃、犬に噛まれたトラウマがあるらしく、犬嫌いだったからです。情けない話です。犬を飼うにも、家内の許可を貰わなければならないなんて......」
 消え入りそうな声で言うと、原田が長いため息を吐いた。
「もしかして、別居の原因というのは犬のことですか?」
 涼也は訊ねた。
「ええ......結婚生活二十三年、その日の服装から仕事まで、決定権は家内にありました。たった一度の我がまま......たった一度、自分の好きなことを心のままにやってみたかったんです。犬を飼いたい。五十過ぎの男が小学生のように、勇気を振り絞って言いました。案の定、家内は烈火の如く怒り出しました。いつもならあっさり引き下がる私も、このときだけは意地でも譲る気はありませんでした。犬一匹飼えない結婚生活など、どれだけ裕福であろうとも惨めなものです。犬を諦めるか、私の家を出て行くか......家内は、私に二者択一を迫りました」
「まさか、それで家を出たんすか!?」
 健太が、素頓狂な声を上げた。
「お恥ずかしい話です......」
「そんなことで家を出るなんて、子供じゃないっすか?」
 健太が、呆れたように言った。
「こら、原田さんに失礼じゃないか」
「いえ、この方の言う通りです。本当に、この年になって犬を飼う飼わないで家を追い出されるなんて情けないかぎりです。ですが、私は家を出たことを後悔していません。初めて、自分の意思を通すことができてむしろ清々しい気持ちです」
 原田が、言葉通りにさっぱりした表情で言った。
「ですが、この家ではペットを飼えないのではないですか?」
 涼也は、原田に訊ねた。
「いえ、ここの大家さんが無類の犬好きで、中型犬以下ならペット可のアパートなんです」
 原田が、嬉しそうに言った。
「いま、お仕事のほうは?」
「はい。旧友が経営している警備会社で、夜勤で働かせて貰っています。夜の八時までは一緒にいられますので、クリームに寂しい思いをさせることはありません」
「原田さん。残念ながら、クリームを送り出すことはできません」
「え......」
 涼也が絞り出すような声で言うと、原田が絶句した。
「どうしてっすか!? 犬を飼っていい住居で、仕事もしてて、朝から夜まではずっと一緒にいられて、年齢も還暦前だし......なにより、犬への愛情が半端ないじゃないっすか?」
 健太が、びっくりしたように口を挟んできた。
「あの......私が、偽りの申告をしていたのが理由でしょうか?」
 おずおずと、原田が訊ねてきた。
「いいえ、それはありません。奥様と別居に至る経緯をお話し頂きましたし」
 涼也は即座に否定した。
 嘘ではなかった。
 別居に至る理由は納得できるものであったし、なにより、犬を飼いたくてそうしたようなものだ。
 だが、それが問題だった。
「だったらなぜ、だめなんすか?」
 健太が、怪訝そうに原田の質問を代弁した。
「原田さんが、犬への愛情に深い方というのは伝わります。軽はずみな気持ちで、里親になろうとしていたのではないことも」
「......では、里親の資格としてなにが足りないんでしょうか?」
 原田が、遠慮がちに訊ねた。
「私のいう条件を満たしてくだされば、クリームの里親になって頂けます」
 涼也は、原田の質問に答えずに言った。
「その条件とは、なんでしょう?」
「奥様のもとに戻り、保護犬を受け入れる協力を仰いでください」 
「家内の!? どうしてですか? 家内との別居の経緯はお話ししましたし、理解して頂けましたよね?」
 原田が、初めて納得がいかないという表情を見せた。
「はい。理解しました。ただし、それは、原田さんの夫としての立場とそうしてでも犬を飼いたいというお気持ちです。ですが、それとクリームを安心して送り出せるかという話は別問題です。原田さん、今回のあなたの決断はご自分を優先したものです。クリームの側に立てば、家を飛び出すより奥様を説得するほうを選択するはずです」
「先ほども申しましたように家内は犬を飼わないと......」
「それでも、説得するのです。原田さん、失礼ですが腰と膝が悪いですよね?」
 涼也が言うと、原田が驚いたように眼を見開いた。
「前回の面談のとき、屈んだり立ち上がったりするときの様子や、クリームが飛びかかったときに尻餅をつくのを見てそう思いました。里親の資格に六十歳未満の健常者とあるのは、なぜだかわかりますか?」
「私はまだ五十八です。クリームより先に死んでしまうようなことはありませんからご安心を」
「私が気にしているのは、健康寿命です」
「健康寿命?」
 鸚鵡(おうむ)返しする原田に、涼也は頷いた。
「原田さんの腰や膝が悪化して、仕事ができなくなったら収入はどうなりますか? 原田さんが寝込んでしまったら、誰がクリームの面倒を見るんですか? 奥様と別居しなければ、収入の面も心配ありませんし、原田さんの具合が悪いときでもクリームに餌をあげ散歩させてくれる人がいます」
「ですから、家内は犬を飼うことを認めては......」
「説得してください。あなたの信念を貫くためやプライドのためではなく、クリームのために。本当にクリームのことを思っているなら、あなたの夢や信念で決断するのではなく、彼の残りの犬生のための決断をしてあげてください」
 涼也は、原田の瞳をみつめた。
「わかりました。ですが、どうしても家内が納得しないときはどうすればいいんですか?」
 原田が、不安げに訊ねてきた。
「そのときは、クリームの里親になることを諦めてください」
 胸奥の疼きから意識を逸らし、涼也はきっぱりと言った。

 ――この人達が貰ってくれなければ、明日には処分されてしまうかもしれない子達に直面していたら、そうせざるを得ないんじゃないかしら。涼ちゃんが見ているのは、殺処分ゼロの東京だけの平和な保護犬達......だから、簡単に追い返すことができるんじゃないかな。

 また、脳裏に蘇る華の声が涼也を苛んだ。
「そうですよね......私が、自分勝手でした。たしかに、私の身体はあちこちにガタがきていて、いつエンストを起こしてもおかしくありません。柴犬は運動量が豊富なので、一日二回は散歩が必要ですものね。家内への意地や自分のプライドを優先して、クリームのことは後回しにしていました。勇気を出して、もう一度、家内を説得してみます」
 原田が、なにかが吹っ切れたようなすっきりした表情で言った。
「よかった。ご理解くださり、ありがとうございます」
 涼也は、安堵に口もとを綻ばせた。
 心のどこかで、原田がクリームの里親になるのを諦めるのではないかという不安があった。
 原田に向けた厳しい言葉とは裏腹に、涼也は願っていた。
 クリームの里親になってほしいと......。
「いえいえ、礼を言わなければならないのは私のほうです。自分のつまらないプライドと意地に、クリームを巻き込むところでした。明日、早速、家内の家に行きます。なんとか説得して、家内と二人でクリームを迎え入れられるようにしたいと思います」
「愉しみに、連絡を待っています」
 涼也が頭を下げるのを合図に、健太がスライドドアを開いた。
「はい。では、失礼します」
 アパートに戻る原田の背中は、一回り大きく見えた。
「すみませんでした!」
 スライドドアを閉めるなり、健太が頭を下げて詫びた。
「ん? どうしたんだ?」
「正直、どうして所長は原田さんを里親として認めてあげないのか、納得できませんでした。たしかに嘘を吐いたことはいけないことだけれども、その理由は犬を飼いたいからなのに......里親として認めてあげなければ、家を飛び出した意味がなくなってしまうって......。だけど、所長のクリームの将来を見据えた考えを聞いたときに、俺は自分が恥ずかしくなりました。所長はこんなにも保護犬達のことを深く考えていたというのに、いつもそばで見ていた俺が一瞬でも不満を抱くなんて......マジに情けないっす」
 健太が、力なく頭を垂れた。
「気にするな。俺だって、何度もクリームを送り出そうかと思ったよ。でも、情に絆(ほだ)されることがクリームはもちろん、原田さん自身のためにもならないんじゃないか......そう思ったのさ。なにより、原田さんの犬にたいしての気持ちが本当だってわかったから、待つことにしたんだよ」
 涼也は、健太の肩に手を置き胸の内を話した。
「じゃあ、原田さんはクリームを飼うことができるって思ってるんすね?」
「ああ。必ず、原田さんの想いは奥さんに通じると俺は信じている」
 涼也の言葉に、健太の顔がパッと明るくなった。
「さあ、車を出してくれ」
「どこに行けばいいっすか?」
「恵比寿(えびす)方面に向かってくれ」
 涼也はシートに背を預け眼を閉じると、達郎の自宅マンションの住所を口にした。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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