168時間の奇跡第11回
もう三十年以上前に、シベリアンハスキーの大ブームが起きたことがある。
鋭い眼光を持つシャープな顔立ちのシベリアンハスキーは、狼と似た風貌で人気に火がついた。
だが、シベリアの氷点下五十度にも達する酷寒の大地を、五百キロ以上もリレーしながら走るシベリアンハスキーは、日本で飼うには不向きな犬種だった。
絶対的なリーダーシップのもとで主従関係を結んできたハスキーを扱える飼い主が、日本には少ない。
必然的に主従関係が逆転し、ハスキーは飼い主の指示に従わなくなり、バカ犬の烙印を押されることになった。
結果、ハスキー人気は急落した。
当時、心ない飼い主達に次々と捨てられたハスキーが野良犬化し、社会現象にもなった。
もちろん、ハスキーは馬鹿な犬ではない。
聡明で決断力に優れた主人に忠実な犬だった。
人間の都合により、ペットが犠牲になったハスキーの悪しき例を繰り返してはならない。
「剥がれても、いいじゃないか」
達郎の声が、涼也を現実に引き戻した。
「メッキが剥がれたら、また張り直せばいいじゃないか。三度でも、四度でも。たしかに、お前の言っていることは正論だ。だが、同時に理想論でもある。川に溺れている子犬に遭遇したら、服が汚れるからとか気にせず飛び込もうとするだろう? なあ、涼也。正論だけでは、大義を果たすことはできないんだぞ」
――私は、貰い手のいない死と隣り合わせの犬や猫を見ているから、さっきの夫婦みたいな感じでも、この子達を引き取りたいと名乗り出てくれるだけで感謝の気持ちで一杯になるの。至らない点、不安な点があったら、指導して、諭して、この子達を引き取るに相応しい気持ちが芽生え、知識が身に付くように導く努力をしようと思う。だって、この人達が貰ってくれなければ、明日には処分されてしまうかもしれない子達に直面していたら、そうせざるを得ないんじゃないかしら。涼ちゃんが見ているのは、殺処分ゼロの東京だけの平和な保護犬達......だから、簡単に追い返すことができるんじゃないかな。
達郎の言葉に、記憶の中の華の声が重なった。
自分の言っていることは、奇麗ごとなのだろうか?
5年間、この信念を貫いてやってきたことは間違いだったのか?
スタッフたちには理解されていなかったのだろうか?
「子犬を助けるために川に飛び込んで付く汚れと、目的を達成するために人を欺くことは違う。とにかく、どれだけ頼まれても番組に出演する気はないから諦めてくれ」
涼也は一方的に言い残し、パソコンのディスプレイに向き直った。
「わかった。勝手にしろ」
吐き捨てるように言うと、達郎が席を立ち出口に向かった。
「これだけは、言っておく」
達郎が足を止めた。
「お前のやっていることは、正義じゃなくて偽善だ」
背を向けたまま言うと、達郎がふたたび歩を踏み出した。
瞬間、マウスに置いていた涼也の手に力が入った。
「偽善だなんて、失礼な人ですね!」
達郎が出て行くと、健太が憤然とした顔で言った。
「うん、偽善は言い過ぎね。だけど、達郎さんの言うこともわかるような気がするな」
亜美が口を挟んだ。
「は? なに言ってるんだよ? 達郎さんは、ここにいるワンコじゃなくて、憐れで見すぼらしいワンコをよそから連れてくるヤラセを勧めてきたんだぞ!?」
健太が、非難の眼を亜美に向けた。
「ヤラセはダメだと思うけど、この子達の貰い手を増やすためなら仕方ないんじゃないかな。所長は、石頭過ぎますよ! 達郎さんの顔が潰れちゃうじゃないですか。それに、この子達のためにもなるし、テレビに出ましょうよ」
亜美が、涼也のもとに駆け寄り訴えた。
「達郎には、悪いことをしたな。あとで、謝っておくよ」
涼也も、達郎のことは気になっていた。
保護犬ボランティアを一過性のブームにしないために番組出演を断ったとはいえ、達郎とて業界の活性化を考えてやったことなのだ。
「本当ですか!? じゃあ、私、達郎さんとプロデューサーさんを呼んできます!」
「その必要はないよ」
ドアに向かいかけた亜美の足が止まった。
「え? 達郎さんに謝るんじゃないんですか?」
亜美が、怪訝な顔で振り返った。
「達郎とは、今夜にでも時間を取って会うから」
「プロデューサーさんは、どうするんですか? いまならまだ、いるかもしれないじゃないですか?」
「達郎には謝るけど、番組には出演する気はないよ」
「えっ! 達郎さんの立場はどうするんですか!? 今回の番組出演を決めるの、かなり大変だったって言ってましたよっ。所長だって、達郎さんに悪いことしたって言ってたじゃないですか!?」
亜美が、血相を変えて訴えた。
「達郎には、本当に申し訳ないと思っている。でも、それとこれとは話が違うんだ。それより、この子達の朝ご飯の用意を頼むよ」
涼也は言うと、パソコンに顔を戻した。
「なにが違うか、教えて......」
「この子達を、守るためよ」
亜美の言葉を、それまで黙って見ていた沙友里が遮った。
「この子達?」
「そうよ。ヤラセがバレたら、どうなると思う? ごめんなさい、では済まないのよ? 『ワン子の園』の信用は、ガタ落ちになるわ。ヤラセなんかする保護犬ボランティアの里親に、誰がなろうと思う?」
「でも、この子達に責任はないじゃないですか!?」
「そうよ。この子達に責任はないわ。だけど、『ワン子の園』がそっぽを向かれたら、この子達もそっぽを向かれるのよ。それだけじゃない。保護犬ボランティアの業界自体が、信用を失うことになるの。それが、なにを意味すると思う? 保護犬自体も悪いもののような印象になっちゃって、里親の数は激減するでしょうね。所長は、この子達が一番の被害者になることを危惧して断ったのよ」
沙友里が、柔らかな口調で亜美を戒めた。
「所長、なにも知らずに勝手なことを言ってごめんなさい!」
亜美が、弾かれたように頭を下げた。
「いいんだよ。頭を上げて。亜美ちゃんは悪くないさ。どんな理由があろうと、僕が達郎の好意を無にしたのは事実なんだから」
涼也に促され頭を上げた亜美の眼は、赤く充血していた。
「でも、達郎さんも同罪ですよ! プロデューサーの側に立って、所長にヤラセをさせようとしたわけですからっ」
健太が、憤然とした口調で言った。
「いや、達郎だってこの子達のことを考えての行動だから」
庇ったわけではなかった。
性格もやり方も違うが、達郎も涼也に負けないくらいに保護犬の将来を四六時中考えているような男だ。
「だからって、ヤラセなんて......」
「はいはいはい! ここまでよ! 亜美はこの子達の朝食を仕込んで、健太君は私とトイレマットの交換をしてちょうだい」
沙友里が手を叩きながら、健太と亜美に命じた。
亜美が厨房に、健太が出入口側のサークルに向かった。
「いろいろ、助かるよ。ありがとうな」
涼也は、健太と反対側の壁沿いのサークルに行こうとした沙友里に声をかけた。
お世辞ではなく、沙友里の存在があるからこそ「ワン子の園」はまとまっていた。
涼也の一番の理解者であり、二十五歳とは思えない落ち着きがあった。
「水臭いこと、言わないでください。所長のやっていること、間違ってないと思います。私、どんなときでも味方ですから」
沙友里は頬を赤らめ頭を下げると、踵を返した。
涼也はデスクチェアから立ち上がり、柴犬のクリームのサークルに向かった。
二本足で立ち上がったクリームがサークルに前足をかけ、大きく横に尻尾を振った。
いまでこそ元気を取り戻したクリームだったが、去年、動物愛護相談センターから引き取ったばかりのときは二日間餌を食べなかった。
飼い主と離れ離れになり、寂しさに断食する犬は多い。
クリームの場合は、妻を失った老人が体調を崩し犬を飼える状態ではなくなったという理由で動物愛護相談センターに持ち込まれたので、人間の好き勝手で捨てられたわけではない。
だが、クリームからすれば、どんな理由であろうと大好きな飼い主と離れ離れになった事実に変わりはないのだ。
「決まるといいな」
涼也はクリームに語りかけると、サークル越しに抱き締め首筋を撫でた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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