168時間の奇跡第1回
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三十坪の店内に、複数の犬の鳴き声が響き渡った。
午前八時......「ワン子の園」の朝食の時間になると、店内が賑やかになる。
「モモ、おはよ......待て待て、慌てなくてもご飯は逃げないから」
涼也(りょうや)は優しく声をかけながら、百グラムのドッグフードをモモ......トイプードル二歳雌のサークルの中に置いた。
モモが、ステンレスのボウルに顔を突っ込み勢いよくドッグフードを食べ始めた。
「ほらほら、噎(む)せるからゆっくりね。トップ、朝ご飯だよ」
涼也はモモの横のサークル......柴犬四歳雄のトップに百三十グラムのドッグフードを与えた。
涼也が右手に持つカゴの中には、ドッグフードの入った大中小のボウルが並べられていた。
「待ちなさい、いい子にしないとあげないわよ~」
涼也と対面の壁際に並ぶサークルの犬達に朝食を与えている沙友里が、飛び出さんばかりの勢いで後ろ足でジャンプする紀州犬五歳雌のミルクにお座りを命じていた。
沙友里はトリマーで、先月に誕生日を迎えて二十五歳になった。
沙友里のほかには、引っ越し業者で二十四歳の健太、テレビ制作会社勤務の三十五歳の達郎、沙友里と同じ店で働くトリマーの後輩の二十二歳の亜美の四人が「ワン子の園」にボランティアできてくれている。
みな、本業を持っているので全員が毎日手伝いにこられるわけではない。
なので、月末に次の月のシフトを組んでいる。
理想は四人態勢だったが、今日のように涼也ともう一人の二人で回していくことが多かった。
「ワン子の園」には現在、三十頭の犬がいた。
ペットショップと違い、ここにいるのは保護犬なので成犬が多い。
餌をあげるといっても、小型犬、中型犬、大型犬、または生後一年未満の幼犬、成犬、八歳以上の老犬、持病持ちの犬によってあげる量もドッグフードの種類も違うので、仕込みから配り終わるまで一時間以上かかる。
犬達が朝食を食べている間、トイレマットのシート交換を行う。
中にはトイレで排泄することを覚えていない犬もいるので、床に粗相をしている場合は除菌スプレーで臭いを消して、ウエットティッシュで拭き取らなければならない。
衛生面以外にも、臭いを残しておけばふたたびそこに排泄する可能性が高くなるからだ。
どんなに糞便を撒き散らしていても、決して怒ってはならない。
人間と違って、犬はなにを怒られているのかわからないからだ。
粗相するたびに怒っていると、排泄すること自体が悪いことだと思い隠れてやるようになる。
トイレできちんと排泄できたら大袈裟に褒めてあげ、粗相をしたら無言で掃除する。
褒めるのは、排泄した直後だ。
時間が経ってから褒めても、粗相をして怒られたときと同じでなにを褒められているのか理解しないからだ。
犬の躾(しつけ)は褒めるのも叱るのも、その場、その場でやることが肝心だ。
「リキ、ちょっと待ってね。もうすぐ散歩に行くから」
沙友里が、リキ......四歳雄の柴犬に語りかけた。
朝食とトイレマットの掃除が終わったら、犬達を散歩に連れて行く時間だ。
健康な犬の場合、身体の大きさと年齢ごとに複数回にわけて散歩する。
たとえば、小型犬グループ、中型犬&大型犬グループ、一歳未満の幼犬グループ、七歳までの成犬グループ、八歳以上の老犬グループといった感じだ。
散歩時間は、幼犬グループ、老犬グループ、小型犬グループは二十分、中型犬&大型犬グループは三十分を目安にしていた。
あくまでも目安で、小型犬でもテリアのように豊富な運動量を必要とする犬種なら中型犬や大型犬と一緒に、逆に体力のない中型犬や大型犬は小型犬に混ぜて散歩させる場合もある。
散歩は、朝食とトイレシートの交換の終わる九時あたりから出かける。
ボランティアがいるときは二人や三人で手分けして行えるが、今日は二人しかいないので涼也か沙友里が一人でやらなければならない。
午前十時からは里親希望の問い合わせや面接があるので、最低一人は店内に残る必要があった。
「おはよう。朝ご飯......」
涼也がボウルを置こうとしたときに、待ちきれずにポメラニアン一歳雄のスカイが飛びかかってきた。
「ノー! お座り!」
涼也はボウルを持つ手を宙に止め、低く短く命じた。
犬を叱るときには、いくつかのルールがあった。
甲高い声は褒められているか遊んで貰っていると勘違いするので、低い声で叱る。
叱るときは、短く、いつも同じワードを使う。
ノー、ダメ、イケナイなど、その都度違う言葉を使うと犬が混乱してしまう。
また、そんなことしたらだめじゃないか、などの長い言葉も犬には理解できない。
同じワードを繰り返し使うことで、条件反射でやめさせたい行為を覚えさせるのだ。
あまり知られていないことで注意すべきことは、叱るときに名前を呼ばない、というものがある。
たいていの飼い主は、名前を呼んでから叱ることが多い。
しかし、犬からすれば名前を呼ばれるイコール叱られる、というネガティヴイメージが刷り込まれ、名前を呼んでも逃げてしまうようになり兼ねない。
涼也達の使命は、一日でも早く犬達を我が子のように愛情を持って接してくれる里親を見つけることだ。
そのためには、最低限の躾は必要だった。
排泄をそこら中にする、言うことを聞かずに暴れ回る、名前を呼んでも無視する......これでは、里親希望者も手を上げない。
もともとがペットショップのように売りやすい三ヵ月未満の子犬と違い、体が大きくなった子犬や成犬が多いというハンデがある保護犬なので、譲渡の妨げになる可能性のある要素は極力消しておきたかった。
「いい子だね~」
スカイがお座りしたタイミングを逃さず、涼也は素早く朝食を与えた。
勢いよくボウルに顔を突っ込むスカイは、三日前に動物愛護相談センターから引き取ってきたばかりだ。
一ヵ月ほど前に、スカイは二十代の女性が動物愛護相談センターに連れてきたという。
理由は、結婚を控えており婚約者が大の犬嫌い、というものだった。
職員は考え直すように説得を試みたが、婚約者が虐待する恐れがあるという話を聞いてやむなく引き取ることにした。
現在の動物愛護相談センターは、昔と違い収容されて一週間で里親が見つからなければ殺処分される、ということはない。
地域によって多少の差はあるが、少なくとも殺処分〇を掲げている東京都では、半年以上飼育している犬猫も多い。
職員も、犬猫の命を大事に思う気持ちは涼也達と同じだ。
だが、殺処分にならなくても日が経つごとに犬猫は年を取り、里親希望者は少なくなる。
涼也は、できるだけ余生が長いうちに新しい犬生を送らせてあげたかった。
飼い主がペットを動物愛護相談センターに持ち込むのには、様々なケースがある。
重篤な病気を患い、または大怪我をして世話ができなくなったから、震災で家が倒壊したから、急な海外転勤が決まったから、予想と違い大きくなり過ぎたから、躾に失敗し手に負えなくなったから、妊娠したから、結婚した相手が動物アレルギーだから、飽きたから......様々な理由で、全国の動物愛護相談センターが引き取る犬の数は年間十万頭以上に上る。
飼い主から持ち込まれるケースもあれば、捨てられていた犬猫や被災地で野犬化した犬及び野良猫を保護するケースもある。
飼い主がペットを動物愛護相談センターに持ち込む理由の中で、涼也が仕方ないと思うのは、ペットの飼育ができないほどの大病や怪我、飼い主の死、そして震災くらいなものだ。
急な海外転勤にしても、その気になれば連れて行ける。
自分の子供なら、施設に引き取って貰う選択などしないだろう。
犬猫を飼うということは、おもちゃやアクセサリーを買うのとは違う。
命ある生き物を家族として迎え入れるのだ。
ペットを飼う、という感覚ではなくパートナーと人生を共にする、という意識でなければ資格がない。
手に負えなくなったとか飽きたから、などの理由は論外だ。
ガス室送りという残酷な保健所のイメージは昔の話であり、東京都の動物愛護相談センターで犬は二○一五年の十頭を最後に、二○一六年から一九年まで四年連続で、猫は二○一七年の十六頭を最後に、二○一八年、二○一九年と二年連続で殺処分〇を達成した。
もともと怪我や病気で衰弱していた場合の引き取り後、または収容後に死亡した数は殺処分には入れない。
殺処分〇を達成できた大きな理由としては、センターが引き取る犬猫の数自体が大幅に減少したことが挙げられる。
もちろん、自然にそうなったのではない。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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