168時間の奇跡第30回

 顔面が蒼白になり、唇が小刻みに震えていた。
「真理子社長が、そんな残酷なことするわけないじゃないですか! 華さんは、デマを鵜呑みにして『Dスタイリッシュ』を視察するなんて、ひど過ぎます!」
 我を取り戻した沙友里が、血相を変えて抗議した。
「そうじゃないんだ。華は通報を鵜呑みにしているわけではなく......鵜呑みにしていないからこそ、視察するんだと思う。長谷社長には一度しかお会いしていないけど、動物にたいしての深い愛情を僕も感じたからさ」
「だったら、なぜ、華さんは視察なんてするんですか!? デマを鵜呑みにしていなくても、真理子社長を疑っている気持ちがあるからそうするんでしょう!?」
 沙友里の膝上に置かれた十指の爪が、デニムの生地に食い込んでいた。
「彼女だって、長谷社長を疑っているわけじゃ......」
「信じても疑ってもいないわ」
 涼也の声を遮り、華がフロアに現れた。
「華、どうしてここに?」
「涼ちゃんだと優し過ぎる説明になってしまうと思ってきてみたら、案の定だったわ」
 言いながら、華が涼也の隣に座った。
「やっぱり、華さんはデマを信じて真理子社長を疑っているんですか!?」
 沙友里が、華を強い眼差しで見据えた。
「その前に、沙友里ちゃんに言っておきたいことがあるわ。通報をデマだと決めつけるのは危険よ」
「じゃあ、華さんは、真理子社長が売れ残った子犬達を繁殖場に閉じ込めて処分していると言うんですか!?」
「そうとも違うとも言ってないわ。私が言いたいのは、こういうときに一番やってはいけないことは、私情を挟んだり先入観で決めつけたりすることなの。デマだったら視察して証明できることだし、でも、頭からその可能性はないと決めつけて放置した結果、万が一、通報がデマじゃなかったら? ほとんどの親は子供が犯罪の容疑者になると、ウチの子にかぎってそんなことをするはずはない、と思っているわ。だけど、哀しいかな、罪を犯す子供もいるのが現実なの」
 華が淡々とした口調で言った。
「真理子社長を、犯罪者と一緒にするのはやめてください!」
 沙友里が涙声で叫んだ。
「犯罪者扱いなんて、していないわ。私は、頭から通報はデマだと決めつけて視察をせずに、知らないところで犠牲になっている子犬達がいるかもしれないということを、あなたにわかってほしいの」
 華が、諭し聴かせるように言った。
「馬鹿にしないでください。私だって、動物にたいしての知識や愛情は華さんに負けていません。感情だけで言っているのではなく、真理子社長のもとに三年間働いて人間性がわかっているからこそ、否定しているだけです。店の子犬が病気になったら泊まり込んで看病したり、亡くなった子が出たら葬儀をしてあげて、写真をスタッフルームに飾るほどの優しい気持ちを持っている人です。そんな人が、売れ残った子犬を実験用や手術の練習台として闇業者に売り飛ばしているなんて、ありえないと言っているんです!」
 沙友里が、大きな瞳を濡らしながら訴えた。
「華、沙友里ちゃんの気持ちもわかってあげてほしい。彼女は、僕達の知らない長谷社長の素顔をたくさん見ているんだから」
 涼也は、単に同情して助け船を出したわけではない。
 沙友里は、なにごとにも慎重で洞察力のある女性だった。
 長谷真理子が通報されたような行為を平気でやるような人間なら、沙友里は見抜くはずだった。
「近くにいるからこそ見えずに、遠くにいるからこそ見える物事があるわ」
 華が、無表情に言った。
「どういうことですか?」
 沙友里が、怪訝な顔を華に向けた。
「そのままの意味よ。あなたは長谷社長を知り過ぎているからこそ、彼女にたいしての固定観念が強い。彼女がそんなことするはずがない、彼女にかぎって......ってね」
「だったら、華さんにお訊きします。もし、所長が『ワン子の園』で犬を虐待しているって通報があったら、華さんはどうするんですか!? 『ワン子の園』を視察するんですか!? そんなこと、するはず......」
「もちろん、視察するわ」
 華が、沙友里を遮り言った。
「嘘ですっ。所長を愛しているなら、そんなことできるはずがありません!」
 沙友里が強い口調で否定した。
「愛しているからこそするのよ」
 対照的に冷静な声音で言うと、華が澄んだ瞳で沙友里をみつめた。
「愛しているなら、信じることが大事じゃないんですか!?」
「信じているわ。だから、『ワン子の園』に嫌疑がかかったなら、それを晴らすためにも視察をするの。万が一、通報が本当なら罪を贖(あがな)って貰う......それが、本当の愛情だと思っているわ。あなたも長谷社長のことを思っているなら、嫌疑を晴らすべきよ。もし通報通りだとしたら、それを正すのも愛情よ」
 華が、物静かな口調で沙友里に訴えかけた。
「そんなの......詭弁(きべん)です! 華さんは綺麗ごとを並べているだけで、結局は、所長のことをその程度の愛しかたしかできない人なだけじゃないですか!」
 沙友里の大声が、施設内に響き渡った。
「沙友里ちゃん、それは違うよ」
 それまで黙っていた涼也は、口を挟んだ。
「え......?」
「婚約者だから言うわけじゃないけど、華は人にも動物にも愛情深い女性だよ」
「だったら、どうして真理子社長を疑って『Dスタイリッシュ』を視察なんてするんですか!?」
「華は、通報を信じて長谷社長を疑ったわけじゃない。彼女の頭にあるのは、動物を救うことだけなんだ」
「だから、長谷社長はそんなことする人間じゃないって、何度言えば信じてくれるんですか!? いいえ、華さんは最初から真理子社長のことを疑っているだけです! 私、華さんのこと尊敬していました......華さんみたいになりたいって、憧れていました。でも、それも今日までです。華さんがこんなに、薄情な人だと思いませんでした」
 沙友里が、涙の溜まる眼で華を睨みつけた。
「こうなることを、華がわからないと思ったのかい?」
「なにがですか?」
「長谷社長を信頼している君に、『Dスタイリッシュ』の視察の協力を頼んだりしたら軽蔑されるってことさ。華は、ガセかもしれない......いいや、ガセである可能性が高い通報に、君への協力を仰いだ。軽蔑されるのを承知でね。理由は一つだよ。九九・九パーセント沙友里ちゃんに恨まれることになるのを覚悟して、悪者になると決めた。〇・一パーセントでも犬達が虐待されている可能性があるかもしれないなら、自分は軽蔑されてもいいと思ったんだ」
 涼也は、沙友里の瞳を覗き込みながら華の思いを代弁した。
 沙友里は唇を噛み締め、首を横に振っていた。
「華はどうして、視察のことを君に話したと?」
「それは、私が協力すればいろいろとやりやすいからでしょう?」
「たしかに、それはある。ただし、それは君が協力したらの話だ。視察の話なんてしたら、沙友里ちゃんが気を悪くするのは容易に想像ができるし、実際に、君は怒った。そうなれば、君が長谷社長に情報を流すかもしれない......というより、その可能性のほうが高い。なのに、なぜ、事前に君に話したか? それは、君なら自分と同じ考えになると信じているからさ」
 涼也は、沙友里の様子を窺いつつ言った。
「信じるのは勝手ですけど、私が真理子社長に報告すると言ったら、どうしますか? いえ、報告します」
 沙友里が、断言した。
「そうか。それは、華の口から聞けばいい。沙友里ちゃんはこう言っているけど、君はどうする?」
 涼也は、華に視線を移した。
「仕方ないわね。こうなる可能性も含めて、あなたに協力を仰いだんだから。私に、止める権利はないわ」
 華が、嫌味なわけでもショックを受けたふうでもない、落ち着いた口調で言った。
「それなのに、どうして私に通報のことを言ったんですか!? 華さんの立場からすれば、私が真理子社長に視察のことを漏らすのは困ることでしょう!?」
 沙友里が、いら立ちを隠さずに訊ねた。
 いら立ちの理由......沙友里に、華の気持ちが伝わり始めた証。
 彼女は、葛藤していた。
「そうね、たしかに困るわね。でも、私は、万が一通報通りだったら、あなたと一緒に子犬達を救い出したいの」
 華が、沙友里を直視した。
「口に出したくもないですけど、通報が事実なら......私がいてもいなくても関係ないじゃないですかっ」
 沙友里が視線を逸らしつつ吐き捨てた。
「関係あるわ! あなたが口に出したくないような事実があるなら......だからこそ、沙友里ちゃんに『Dスタイリッシュ』の子犬達を救い出してほしいの。どんなショックな現実が待っていたとしても、物言えない犬達の命以上に優先するものはないわ。通報がデマだとかデマじゃないとかは関係ない......涼ちゃんが言ったように、可能性が〇・一パーセントでもあるかぎり、ゼロじゃないかぎり私は誰が相手でも視察するわ。人間関係と子犬を救うことは、切り離して考えるべきだということをあなたにわかってほしいの。沙友里ちゃんが信頼する人を容疑者扱いした私のことは恨んでもいいから、それだけは忘れないで」
 さっきまでと違い、明らかに華の言葉には感情が載っていた。
 相変わらず華から顔を背けたままだが、沙友里の表情にも微かな変化が表れていた。
「昔、友人が小学生の頃に犬を拾ってきたけど、両親に飼ってはだめだと怒られて、大好きなお爺ちゃんの家に引き取って貰おうとしたことがあってね。両親は、ウチで飼わないなら好きにしていいけど、お爺ちゃんは昔気質(かたぎ)の人だからやめておいたほうがいいと忠告した。両親が言うには、お爺ちゃんは犬をペットではなく野良犬として扱うだろうって。友人は、まだ幼かったから言葉の意味がわからなくて、なにより、お爺ちゃんのことが大好きだった。遊びに行くたびに食べきれないほどのお菓子をくれて、人形もたくさん買ってくれて、怒られたことなど一度もなかった。厳しいことばかり言って、あれだめこれだめ制限が多い両親のことより、お爺ちゃんのほうが好きなくらいだった。友人は、両親の忠告には耳を貸さずに子犬をお爺ちゃんの家に預けた。一週間後の日曜日、友人は子犬に会いにお爺ちゃんの家に行った。お爺ちゃんはいつものように満面の笑みとたくさんのお菓子で出迎えてくれた。友人が子犬に会いたいと言うと、裏庭の犬小屋いると教えてくれた。胸を躍らせて裏庭に走った友人が眼にしたのは、鎖に繋がれ血塗(ちまみ)れで死んでいる子犬の亡骸(なきがら)だった。亡骸のそばには、魚の骨とみそ汁がかけられたご飯が腐敗しハエがたかっていた。子犬の全身の皮膚は引き裂かれ、ところどころ骨が見えていた。よく見ると、眼球もなかった。言葉を失い立ち尽くす友人の隣に立ったお爺ちゃんが、カラスの仕業じゃ、庭を汚しおって、と驚くでもなく苦虫を噛み潰したような顔で言った」
 華が言葉を切り、眼を閉じた。
 悲痛な記憶が、長い睫毛を震わせていた。
「そんな、ひどい......」
 沙友里が、表情を失った。

168時間の奇跡

画・伊神裕貴

Synopsisあらすじ

36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。

今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。

Profile著者紹介

新堂冬樹(しんどう・ふゆき) 

大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。

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