168時間の奇跡第18回
祈りが通じたのか、スマイルが薄目を開けた。
「スマイル! 僕だよ。わかるか!?」
涼也は、スマイルの顔を覗き込み問いかけた。
スマイルは首を擡(もた)げ、小刻みに体を震わせながら起き上がろうとしていた。
起き上がりかけては横になり、また、起き上がりかけては横になることを繰り返した。
「おいおい、無理するな。大丈夫か?」
四度目で懸命に上体を起こしたスマイルが、腰を屈める涼也の腕の中に凭(もた)れかかるように身を預けた。
「よく頑張ったな、えらいぞ」
込み上げる感情を堪え、涼也は笑顔を作った。
哀しみは、以心伝心でスマイルに伝わってしまう。
病と闘っているパートナーに、不安を与えたくなかった。
「この調子なら、すぐに元気になるよ」
涼也が頭を撫でると、スマイルが上目遣いでみつめ、床の上で尻尾をゆっくりと左右に滑らせた。
「スマイルは、所長のことが大好きなんですね」
沙友里が微笑み、眼を細めた。
彼女もまた、涙を堪えていた。
「たしかに! ピクニックに行ったときにみんなで輪になっておいでおいでしたら、迷わず所長のもとに一直線でしたからね! 俺ら、立場なかったっすもんね」
健太が、明るく笑い飛ばした。
彼はまだ、わかっていない。
スマイルに、そのときが近づいていることを......力を振り絞り、別れの挨拶をしようとしていることを。
「お前は、本当に元気なワンコだよ。十二歳なんて、嘘だろう? 逆サバを読んでるんじゃないのか?」
涼也は、スマイルの頭を撫でつつ冗談っぽく言った。
「びっくりです。本当は、とても起き上がれるような状態じゃないはずです」
獣医師の驚きの声が、涼也の胸を締めつけた。
スマイルの頑張りに、胸が張り裂けそうだった。
「病気が治ったら、また、みんなでピクニックに行こうな」
床の上を滑るスマイルの尻尾の振り幅が、大きくなった。
「じゃあ、私、スマイルが大好物の鹿肉バーグをたくさん作るからね!」
沙友里も、スマイルのそばに屈み弾む声で言った。
「俺はカツサンドが好きっす!」
健太が口を挟んだ。
「バーカ、お前の好みなんて、誰も訊いてないんだよ」
達郎が、すかさずダメ出しした。
「お金払うなら、いいわよ」
珍しく、沙友里が冗談を口にした。
「えーっ、人間差別っすよ~」
半泣き顔になる健太に、笑い声が起こった。
みな、笑顔で明るく振舞った。
忍び寄る暗い影を、追い払うように。
「聞いたか? 沙友里ママが、鹿肉バーガーを作ってくれるそうだ。愉しみにしてろよ」
スマイルがゆっくりと顔を上げ、涼也をみつめた。
それから大きく口を開け、舌を出した。
「あ、笑った!」
沙友里が手を叩いた。
「最強のスマイルスマイルっすね!」
健太が大声を張り上げた。
「嬉しいか? よしっ、僕もお前と走っても息切れしないように、明日からジョギング......」
スマイルが突然、涼也の腕の中で崩れ落ちた。
「スマイル!」
涼也は、熟睡したように眼を閉じるスマイルの名を叫んだ。
獣医師が涼也の隣に屈み、聴診器をスマイルの胸部に当て、続いて瞼を指で開いてペンライトの光を当てた。
瞳孔チェックしていた獣医師が、涼也をみつめ小さく頷いた。
「二十二時十五分。スマイルちゃん、安らかに旅立ちました」
獣医師の物静かな声が、遠くで聞こえたような気がした。
瞬間、思考が止まった。
スマイルの被毛に、水滴が落ちた。
水滴が自分の涙だとわかるまでに、しばしの時間がかかった。
沙友里の啜り泣きと、健太の号泣が鼓膜からフェードアウトした。
入れ替わりに、誰かの声が聞こえた。
ごめんな......スマイル。
お前の最期を、ここで迎えさせてしまって......。
「そんなこと、ないと思います」
沙友里の涙声が、心の声に重なった。
「え?」
「スマイルは......『ワン子の園』で、大好きな所長の腕の中で旅立つことができて幸せだったと思います」
嗚咽交じりの沙友里の言葉を聞いて、涼也はスマイルにたいしての後悔の念を口に出していたことに初めて気づいた。
「俺も......俺も......そう思うっす!」
健太が、泣きじゃくりながら言った。
涼也はスマイルを抱き締め、頭に頬ずりした。
スマイルの身体は温かく、眠っているようにしか見えなかった。
涼也はスマイルを抱き締める腕に力を込め、眼を閉じた。
瞼の裏の漆黒――スマイルが、微笑みかけてきた。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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