168時間の奇跡第7回
「叱ったり説き伏せたりして改心させても、なにかがあれば元に戻るものだよ。この子達が言うことを聞かなかったり反抗したり、思い通りに行かないことが続けばメッキが剥がれてしまう」
涼也は、ジェットの頭を撫でつつ言った。
「メッキですか?」
「うん。この子達にたいして無償の愛が芽生えるかどうかは、自分で感じるしかないんだ。彼らが僕達人間にたいして抱く純粋な気持ちを......」
ジェットの首筋を叩き、涼也はサークルから出た。
「なんか、深い言葉です。たしかに、人から叱られたり説教されて気づけるものじゃないですよね。やっぱり、所長は凄いです」
沙友里が褒めてくれるたびに、罪の意識に苛まれた。
自分は、彼女が思っているような元から動物愛に満ち溢れた人間ではない。
「ワン子の園」のボランティアには、涼也の過去は話していなかった。
「沙友里ちゃん、あんまりおだてすぎないでね。こう見えて、意外に調子に乗るタイプだから」
声の主――出入り口から、ショートカットで小顔のパンツスーツ姿の若い女性......華が入ってきた。
「あ、華さん、お疲れ様です!」
笑顔で、沙友里が挨拶した。
華は以前まで東京都の動物愛護相談センターに勤務していたので、保護犬の引き取りに行った際に沙友里とは何度か顔を合わせている。
「沙友里ちゃん、久しぶりね。Z県に移動して以来だから、三、四ヵ月ぶりかしら」
華が言いながら、サークル越しに後ろ足で立ち上がり出迎えるシーズー雄五歳のペコと柴犬雌四歳のクリームの頭を撫でつつ歩み寄ってきた。
「どうしたの? こんな時間に」
涼也は、華をソファに促しつつ訊ねた。
「午後から東京のセンターに立ち寄る用事があるから、その前にちょっと様子を見にきたの」
華はソファには座らず、サークルの犬達の様子を見回っていた。
「華さん、コーヒー派でしたよね? いま、用意しますから」
「僕がやるから、君は早くこの子達の散歩を頼むよ」
涼也は、沙友里に言った。
「あ、そうでした! 華さん、また、今度、新しい職場にも顔を出します。じゃあ、行ってきます!」
沙友里が、四頭の小型犬を連れてフロアから駆け出した。
「さすがに、手入れが行き届いているわね」
華が、サークルの犬達を見渡し感心した口調で言った。
「ボランティアのみんなが、優秀だから。どう? 少しは新しい環境には慣れた?」
涼也はデスクに座り、午後一時に面接予定の原田進太郎のデータを開いた。
華とは約七ヵ月後......彼女の誕生月の十一月に入籍する予定で、現在は別居中だ。
ほぼ二十四時間体制の里親ボランティアセンターを運営している涼也と、Z県の動物愛護相談センターに勤務する華は互いに多忙を極め、籍を入れるまで同棲はしないと話し合って決めていた。
「それより、妥協しないスタイルは相変わらずね。面接の夫婦、散々、文句言いながら帰って行ったわよ」
華が、涼也のデスクの脇に丸椅子を置いて座ると、パンツスーツに包まれた長い足を組んだ。
「聞いてたの?」
パソコンのディスプレイに顔を向けたまま、涼也は訊ねた。
「立ち聞きするつもりはなかったんだけど、途中で入るのもあなたの気が散ると思って待ってたのよ」
「気なんか散らないから、入ってくればいいのに」
「里親希望者の資格チェックも大事だけど、ちょっと厳し過ぎない? 至らない点もいろいろあると思うけど、そもそも完璧な人間なんていないわけだし、なにより、保護犬を引き取りたいって名乗りをあげてくれているわけじゃない」
「それはわかっているけど、この子達が二度傷つく可能性のある環境には行かせられないからね。あれくらいで、ちょうどいいと思っているよ」
〇氏名 原田進太郎 〇年齢 五十八歳 〇職業 自営業 〇住居形態 分譲マンション 〇家族構成 妻と二人暮らし。〇健康状態 良好 持病なし 〇喫煙 配偶者共に吸わない 〇他ペット 無し
涼也はディスプレイに顔を向けたまま、華に持論を口にした。
原田進太郎はデータ上では、里親の資格を満たしていた。
だが、村西夫妻のように、実際に面接のときに問題点がわかることもある。
「次の面接の人?」
華がディスプレイを覗き込みながら訊ねてきた。
「うん。サイトを観て、クリームの里親を希望してくれているんだ」
「ああ、あの柴ちゃん、クリームって名付けたんだ」
柴犬のクリームは、去年、華が東京都の動物愛護相談センターにいた頃に涼也が引き取ったのだった。
クリームは七十歳過ぎの老夫婦に飼われていたが、妻を病で亡くし残された夫も体調を崩し、犬の世話をできる状況でなくなったという理由でセンターに持ち込まれたのだ。
「君に、よく懐いていたよね」
「あの頃が懐かしいわ」
「まだ数ヵ月しか経ってないのに、何年も昔みたいな言いかただな。じゃあ、コーヒーを淹れてくる......」
「三ヵ月で、四頭とお別れしたわ」
華が、淡々とした口調で言った。
涼也は上げかけた腰を椅子に戻し、華をみつめた。
「殺処分の数ってこと?」
「そう。犬一頭に猫三頭。四頭とも七歳を超えてて、引き取り手が現れる見込みがなくて」
「君の地域にも、里親ボランティアはあるんだろう?」
「あるわよ。でも、涼ちゃんのところもそうだけど、保護犬、保護猫のセンターの受け入れ数にも限界があるし、譲渡してもそれを上回る持ち込みがあるから追いつかないの」
華の口調には、どこか諦めの雰囲気が漂っていた。
「だからって、殺処分の理由にはならないだろう? 十件で追いつかなければ二十件、二十件で追いつかなけれは三十件の里親ボランティアと提携するべきじゃないのか?」
「ウチの地域には、そんなに多くのボランティア団体はないのよ。個人レベルで里親探しをやっている人はそれなりにいるでしょうけど、『ワン子の園』規模の団体がたくさんある東京とは違うわ」
相変わらず淡々と他人事のように状況説明する華にたいして、涼也は戸惑いを覚えた。
「だったら、動物愛護相談センターのほうで頑張って貰うしかないよ。七歳でも十歳でも、犬や猫からしたらパピーと同じように人間を信頼している。違いがあるとすれば、それは人間の愛情のかけかたの問題さ。パピーならかわいくて懐きやすいからすぐに引き取り手が現れる、老犬は衰えているし手間がかかり老い先短いから引き取り手がない。犬は、敏感に人間の気持ちを察するんだ。厄介者みたいな扱いをされて、ペットショップのパピーと同じように無邪気に懐くのを求めるのは、人間のエゴ以外のなにものでもないよ」
言い過ぎている......わかっていた。
しかし、東京をはじめとする一部の都道府県以外は、いまだに数多くの殺処分が行われているのが現実だ。
東京だけでなく、一日も早く日本全国の動物愛護相談センターから殺処分をなくすのが涼也が直面する急務であり、使命でもあった。
「もしかして、私に言ってるの?」
華が、怪訝そうな顔を向けた。
「そうじゃないけど......」
涼也は、口にするかどうかを逡巡した。
「けど......なに? 涼ちゃんの言いかたを聞いていると、ウチのセンターで殺処分が行われているのは、私の責任みたいに聞こえるんだけど」
華が、涼也の瞳を直視した。
嘘やごまかしの通じない瞳......ときどき、彼女の瞳は犬の瞳に似ている、と涼也は思う。
Synopsisあらすじ
36歳の涼也は保護犬施設「ワン子の園」の所長で、常時30頭の犬を保護している。4人のボランティアとともに、10年間働いてできた貯金を切り崩して運営しているが、人間のエゴや冷酷さを目の当たりにする一方、犬と人との深い愛情にも触れてゆく。動物愛護センターで働く婚約者とは意見が衝突することもしばしばである。そんな涼也には、忘れられない過去があった……。
今日も「ワン子の園」を訪れる人や犬たちがやってくる。
Profile著者紹介
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
大阪生まれ。金融会社勤務、コンサルタント業を経て、1998年「血塗られた神話」で第7回メフィスト賞を受賞し作家デビュー。以後エンターテインメント小説を縦横に執筆する。著書に『血』『少年は死になさい…美しく』『無間地獄』『枕女優』『痴漢冤罪』『忘れ雪』『紙のピアノ』『神を喰らう者たち』など多数。映像化される作品も多い。
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