山の上の家事学校第47回
「思い出すって言うか、むしろ思い出せないって言うか......」
鈴菜がようやくこちらを見た。
「忙しかったからだと思うけど、なんかそのとき自分がなにを考えていたのか、どう感じていたのか思い出せない。もちろん、どんなことをしていたかは覚えてるんだ。でも、その内側に、自分がいないような......そんな感じがする」
鈴菜は、水槽をのぞき込む理央の肩を抱きながら言った。
「そうね。わたしも、幸彦はいつも、ここにいないみたいだと思っていた」
ぼくは驚いて、鈴菜を見た。
「ここにいない?」
「そう。話をしても聞いていない。ごはんを食べても、味わっていない。最初は忙しいから仕方ないと思っていた。できるだけ支えたいとも思った。でも、どんなにわたしが話しかけても聞いていないし、幸彦が好きなものを作っても、大しておいしそうにしない。理央の話をしているときでさえ、どこか聞き流している。だから思ったの。幸彦はもうここにはいないんだって」
ぼくは凍り付いた。たぶん、そのときにそう言われたら、ぼくは笑って「そんなはずはない。ここにいるよ」と答えていただろう。もしくは、馬鹿なことを言うなと声を荒らげていたかもしれない。
だが、今のぼくは、そのときの自分が存在しなかったように思っている。鈴菜の感じていたことと同じだ。
「もっと早く気づけばよかったな......」
隣の水槽に移ると、ヤドカリが、貝ではなく、品種名の書かれた透明のプレートを背負っていた。理央が振り返って、声を上げて笑った。鈴菜も笑ったが、ぼくはそのヤドカリを痛々しいと思ってしまった。
鈴菜は不思議そうにぼくを見て、それから言った。
「でも、今はちゃんとここにいる感じがするよ。こないだ喧嘩したときも、ちゃんと、ことばが通じる人と喧嘩していると思った。だから、あのときよりは虚しくなかった。今の部署が合ってるんだと思う」
仕事だけのことではない。政治部にいたって、自分の感情を見失わずにいられたかもしれない。ただ、あそこでは、他にもっと大事なことがあるような気がしていた。
それは幻想だったのだと、今は、はっきり言える。
「ちゃんと生活をやっていこうと思ってさ......」
食事を作り、掃除をして、洗濯をする。もちろん忙しいときは買って済ませたり、外注したりするかもしれないが、そういうことをどうでもいいとはもう思いたくない。
たぶん、それは多くの人にとっては、ごく当たり前のことで、四十を過ぎてあらためてそんなことを言っているぼくは、どこかずれているのだろう。
「健康でいてよ。わたしと夫婦じゃなくなったからといって、理央の親であることは変わりないんだから、まだチームは解消されてないからね」
鈴菜は、ぼくの顔を見ずにそう言った。
胸が熱くなる。少なくとも、そう言ってくれるのは、まだぼくに絶望しないでいてくれるからなのだろう。
「理央が成人するまで頑張るよ」
そう言うと、鈴菜はきっとぼくを睨み付けた。
「成人してもよ。成人したから、お父さんのことがどうでもよくなるはずはないでしょ」
なんだか泣いてしまいそうで、ぼくはわざとしかめっ面をした。
「責任重大だ......」
正直に言うと、うれしいだけでなく、少しやっかいだと思う気持ちだってある。野垂れ死にしてもだれも気にしないと考える方が、自由でめんどくさくない。
それでも、ぼくも鈴菜と理央には不幸になって欲しくない。誰かとつながることは、そもそもめんどくさいものなのかもしれない。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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