山の上の家事学校第39回

 正直言うと、家事学校に戻るのも嫌になってしまった。
 せっかく変わろうとしているのに、あんなふうに拒絶されてしまったことに、ぼくは傷ついた。
 わかっている。鈴菜とはもう離婚していて、恋人でもない。彼女はぼくに失望して、去ったのだから、ぼくを拒絶するのは、当然のことだ。
 そう言い聞かせても、心の中で、小さな自分が腹を立てている。
 ぼくは変わろうとしているのに、そのことを認めてくれてもいいじゃないか、と。
 もう一度、愛情を感じてくれとは言わない。でも、ひとことくらい、その変化を褒めてくれたってかまわないじゃないか。
 変わったって、誰も認めてくれないのなら、頑張って変わる必要などないではないか。
 前のように万年床で、コンビニ弁当だけ食べていたって、すぐ死ぬわけじゃないし、多少自炊をしたって、百歳まで健康でいられるとは限らない。むしろ、生活習慣病でさっさと死ぬのが、自分にふさわしいような気さえしてくる。
 ぼくの中で、子供がひっくり返って、だだをこねている。離婚してからしばらくの間、ずっとそうだったように。
 ただ、前と違うのは、被害者のような顔をしてふてくされている自分の隣に、もうひとりの自分がいることだ。
 もうひとりのぼくは、その拗ねているぼくのことを、情けないと思っている。子供だと思っている。叱りつけるわけではないが、呆れたような顔で、自分自身を見下ろしている。
 彼がいつから、そこにいたのかわからない。
 でも、ぼくは、その、もうひとりの自分のことも、無視できなくなっているのだ。


 次の週末は家事学校を休んで、だらだらすることにした。
 情けないことだが、拗ねているのも間違いなくぼく自身で、その自分を無視するのもよくない気がした。
 布団も畳まずに、スマホで動画を見て、ピザのデリバリーで夕食を済ませた。ひさしぶりの宅配ピザは、おいしかったが、妙に胃もたれがした。もうこういうものを食べ続けるほど、身体は若くないということなのだろう。
 布団の上でごろごろしながら、豚汁が食べたいなどと考える。
 豚汁を作ると、スープジャーに入れて翌日の弁当にもできるし、三日くらいは食べ続けることができる。あとは、ごはんと、惣菜一品でもあれば充分だし、おにぎりを一緒に食べてもいい。
 ぼくは翌日、近くのスーパーに出かけて、根菜類と豚の細切れ肉を買った。
 大根、じゃがいも、にんじん、ごぼう、青ネギ。皮を剥いて、火の通りやすさを考えて食材を切る。ごぼうや大根は少し小さめに、じゃがいもは煮崩れしやすいので少し大きく。家事学校で教わった豚汁は、こんにゃくや豆腐も入っていたし、じゃがいもではなく里芋が入っていたが、ひとりで食べるのだから、あまり量が増えても持て余すし、里芋を剥くのは、あまり得意ではない。出汁の取り方も教わったが、自分で食べるのだから、粉末出汁で充分だ。
 自分にとっての、ちょうどいい食材と、ちょうどいい量。
 その加減が、少しずつわかってきたような気がする。
 今日は豚汁を作ったのだから、無理をせず、おかずは漬け物と、買ってきただし巻き玉子にする。だし巻き玉子は、自分ではまだ全然上手に作れないが、まあ、それはそれで別にいいかと思っている。
 炊飯器で炊いたばかりのごはんと豚汁、だし巻き玉子の昼食は、おいしいだけではなく、身体も喜んでいるような気がした。
 無理などしなくてもいい。完璧でなくてもいい。ただ、自分で作った料理は、それが一品だけでも、生活の太い柱になる気がした。
 明日はコンビニで、唐揚げか焼き魚でも買ってくればいいし、ごはんを冷凍しておけば、帰って五分ほどであたたかい夕食が食べられる。
 これを食べきって、外食や弁当の日々が続いても、いつかまたここに戻ってくることができる。
 家事学校に行き始めたときは、たぶん覚えても、またすぐに元の自堕落な生活に戻ってしまうのではないかという気持ちもあった。
 戻らないと言い切ることはできない。忙しかったり、また気持ちが落ち込んだりすれば、きっと元の生活に戻る。
 だが、自分にできるという自信と、やった経験があれば、また自炊を再開することもできる。生きていく限り、生活は続いていく。少しは頑張る自分と、頼りない自分との間を行き来しながら、やっていくしかないのかもしれない。
 熱い豚汁が、身体中に染み渡るような気がした。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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