山の上の家事学校第31回

 猿渡が話してくれたおかげで、その日、ぼくは自分のことを話さずに済んだ。そのことに安心する。
 たぶん、今話せと言われれば、ぼくは必要以上に、過去の自分を卑下し、今の自分が惨めに感じられるように話しただろう。嘘をつくわけではなくても、起こったことを話せば、そうなってしまう。
 過去は後悔しているし、ひとりになったことは寂しい。
 ただ、今はそれだけではないような気がしている。
 それは自分が、個人をすり潰そうとする社会のシステムから、抜け出しつつあるからかもしれない。


 翌日の午前中、ぼくたちは、弁当作りを教わった。
 初級は、炊いたごはんを詰め、ウインナーや玉子焼き、作り置きのひじきの煮物を詰めるだけだったが、玉子焼きが予想外に難しかった。卵焼き器に薄く卵液を流し込んで、焼けたら巻き、それを何層も繰り返す。ぼくは少しもうまく作ることができず、なんとか巻き簀でそれらしい形にするのが精一杯だった。
 十代の頃、もし、自分の弁当がウインナーと玉子焼きだけだったら、母が手を抜いたと思ってしまっただろう。玉子焼きひとつですら、自分では満足に作れないのに。
 ただ、他の生徒を見ていると、堀尾が意外にうまかった。手慣れたやり方で、葱としらす入りの玉子焼きをきれいに形作った。
「昔、自分で弁当作ってたんですよ。忘れてるかと思ってたら、身体が覚えていますね」
 彼はそう言って笑った。意外な一面を見た思いだった。
 他にもいろんなことを教わった。おかずが傷まないように、必ず冷めてから蓋をすること、夏は生野菜などをあまり入れない方がいいこと、プチトマトはヘタに雑菌がいることが多いから、必ずヘタをとること。ひじきや切り干し大根の煮物などを、製氷皿を使って、少量ずつ冷凍して、それを保冷剤代わりに弁当箱に入れるという裏技も教わった。
 一から作れば、時間がかかる。だが、日々の生活の中で、少しずつ準備をすれば、朝やることはそんなに多くない。
 理央と離れて暮らしている今、弁当を作るような機会などないと思っていたが、自分のために弁当を作ってみるのもそんなにわびしいことではないかもしれない。毎日外食ではお金がかかる。
 誰かのための技術を、自分のために使うこともできるし、きっとその逆もある。
 ぼくは少しずつ、自分で自分の面倒をみるやり方を覚えつつある。


 大型連休といえども、何日かは出社しなければならない。
 翌日の出社を控えて、ぼくは夕食後に、家事学校を出るつもりだった。早朝に出ても出社することはできるが、バスの本数が少ないから、一本逃すだけで三十分以上遅れることになってしまう。
 それなら、夜帰って、朝ぎりぎりまで寝た方がいい。
 夕食の後片付けは他の人にまかせ、バスの時間まで和室で時間を潰していたとき、二十代半ばくらいの青年が、和室に顔を出した。
「こんばんは。またお世話になります」
 華奢で、少し中性的な雰囲気のある優しそうな人だった。粟山は顔見知りなのか、片手を上げた。
「やあ、遠藤くん」
「あ、粟山さんもいらっしゃってたんですね」
 ぼくも会釈をした。自己紹介をしたいが、そろそろ出発しなければならない。
「じゃあ、ぼくはそろそろ」
 荷物を持って、学校を出た。バス停に向かう途中、携帯電話が鳴った。妹の和歌子からだった。
「お兄ちゃん、元気?」
「ああ。そっちはどうだ?」
「元気元気。お母さんも元気だよ」
 話ながらバス停に到着すると、向こうからバスがくるのが見える。
「ごめん。これからバスに乗るんだ。用件があったらメッセージでくれる?」
「オッケー。じゃあ、送るね」
 携帯電話をポケットに入れて、バスに乗る。すぐに和歌子からメッセージが届いた。
「連休中はなにしてるの? うちさ、連休後半、家族四人でUSJに行こうと思っててさ。よかったらごはんでもどうかな、と思って」
「連休中は、家事学校に行ってるよ。でも、抜けるのは簡単だから、声かけてくれたら行くよ」
 山之上家事学校に行っていることは、和歌子にはもう話している。
「えっ、じゃあ、寮にいるの?」
「これから、一度家に帰るけど、連休中はだいたい、寮かな?」
「お兄ちゃんの部屋、広い?」
「広くない。1LDK」
 和歌子がなにを考えているかわかった。連休中のホテルは高いだろう。
「鍵貸すからうち泊まるか? 布団は二組しかないけど」
 最初は一組だったが、理央がきたときに、もう一セット買い足した。
「本当、ラッキー。二組あれば充分。ホテルだってツインにエキストラベッド入れるだけだもん。仁くんはシュラフ持ってるから、持って行かせるわ」
 長く住んだ部屋なら、いくら妹でも、貸すことに抵抗がないわけではないが、まだ二ヶ月しか住んでいない部屋は、まだどこか仮住まいのように思える。持ち物も少ないから、すぐに片付けられる。
 一泊はUSJの近くに泊まりたいと言うから、二泊貸すことにして、日程を相談する。メッセージのやりとりをしているうち、降りる停留所が近づいてくる。
 だいたい話も終わった。携帯電話をしまおうとしたとき、またメッセージが届いた。
「さっき、仁くんと話したらね。お兄ちゃんも一緒にUSJどうかなって?」
「俺が? せっかく家族水入らずなのに?」
「うちは年がら年中、家族水入らずだからさ。そこは気にしなくてもいいし。もしくは、三日目は海遊館行くつもりだから、そっちでも」
「ありがとう。これから降りるから、予定を確認してまた連絡するよ」
 電話をしまって考える。昔の自分なら、妹家族と休日に一緒に出かけるなんて考えもしなかった。
 それでも、今は仁太朗がそう言ってくれるのが、厚意からだということはわかる。
 少なくとも煙たい義兄だと思われていないのなら、その方がいい。
 最初は戸惑ったが、ぼくの心は行く方に傾きつつある。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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