山の上の家事学校第36回

 その翌日、「洋服の直し方」という授業を受けた。ボタンの付け方と裾上げの仕方は習ったが、急にそれ以上のこともやってみたくなったのだ。
 穴の空いた服や、直したい服を持ってきていいと言うことだったので、穴の空いたセーターを持ってきた。
 新婚旅行でイギリスに行ったとき、向こうで買ったものだ。
 深みのある緑が気に入っていたが、去年の冬、出してみたら、小さな穴がいくつも空いていた。ニットは防虫剤を入れておかないと、虫食いするらしいとはじめて知った。
 捨てようかと思ったが、どうしても心残りで、クローゼットにしまっておいたのだ。
 教えてくれるのは六十代くらいの女性の先生だった。
 まずは先生がやり方を説明してくれる。
 ニットの糸を使って、穴のまわりを囲むように小さく縫って、きゅっと閉じたり、穴が大きいときは、当て布をして細かくステッチをしていく。
 セーターと同じ色を使えば目立たないが、違う色を使ってアクセントにしてもそれはそれで味になる。
 縫い目がきれいでなくても、それが手作りの風合いになると聞いて、気が楽になった。実際に見せてもらった見本も、細かく揃った縫い目ではなく、太い糸を使って、ラフに仕上げてあった。ほころびや傷を、隠すのではなく、個性にしていく。真新しいものでないからこそ、それは美しく見えた。
 端布で練習してから、セーターの繕いに入る。
 ぼくはセーターより、少し明るい色の糸を選んだ。
 針と糸など、人生で数えるほどしか持ったことがないのに、なぜかちくちくと指を動かしていると、不思議と心が落ち着いた。
 いつも、時間と情報に追われているのが嘘みたいだ。
 頭の中がからっぽになり、ひたすら手元の作業にのみ集中する。昔、プラモデル作りに熱中したのと同じ感覚だ。
 八代が隣の机で、破れたデニムの膝小僧にクマのアップリケをしている。サイズからして、子供のものだろう。ヘアアレンジは上手かった八代だが、アップリケには慣れていないらしく、形も歪だし、クマはなんだか酔っ払ったような顔だ。
 それでも、この世界にひとつしかない形が、子供の記憶に残っていくのだろう。そう思うと、胸が締め付けられるような気持ちになった。
 栗山は、ぼくと同じようにセーターを繕っていたが、紺のセーターに黄色い糸で、小指の先ほどの小さな花を描いていた。なかなかうまい。
 指を動かしながら、栗山が言った。
「父のなんですが、わざわざ手を動かすんだから、なんかちょっと可愛いものの方が楽しいかなと思ったんです。おじさんが花って、不釣り合いかもしれないけど」
「そんなことないですよ。紳士はボタンホールに花を差したりしますしね」
 先生はそう言って微笑んだ。
 実際に、紺のセーターに咲く黄色い花はとても洒落た仕上がりになった。
 こんな作業をしていると、一時間半なんてあっという間だ。もらった資料には、ほつれた袖や、靴下の穴の繕い方なども書いてあった。
 セーターの繕いが終わった後には、どこか晴れやかな気持ちになっていた。
 一年前の自分が、今のぼくを見たら、きっと驚くに違いない。


 ふいに思った。
 これから書く原稿の中で、これは重要なポイントになるかもしれない。
 毎日の生活の中にも、小さな楽しみを見出すことができる。たぶん、それは車や旅行などよりも平等で、誰にでも与えられる喜びだ。
 他人と自分を比べるのではなく、消費世界に巻き込まれるのでもなく、それ以外にも小さな喜びを見つけ出すこと。
 男性だって、これまで日曜大工や庭仕事を通じて、そういう楽しみを見出してきたはずだ。
 ただ自虐的になるのではなく、新しい価値観に身体を無理に合わせていくのとも違う。そんなふうに生きられれば、きっと今までよりも楽でいられるだろう。
 ぼくはまだセーターを一枚繕っただけで、えらそうなことが言えるわけではない。
 だが、これまではそこに楽しみや喜びなどなにもないと思っていた。
 今は違う。それは大きな変化ではないだろうか。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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