山の上の家事学校第7回

 洗濯表示だけではなく、いろんなことを習った。予洗いの仕方、洗剤の種類、衿や袖口の汚れの取り方。液体洗剤よりも粉末洗剤の方がよく汚れが落ちるなんて、知らなかった。洗濯洗剤など、だいたいどれも同じだと思っていた。
 最初に、日常生活ではすべての家事を完璧にやらなくてもいいのだと言ってもらえてよかった。そうでなければ、最初の授業でへこたれていたかもしれない。
 授業を受けながら、鈴菜のことばかり考えた。
 今は、たまにしかワイシャツを着ないから、クリーニングに出しているが、彼女と一緒に生活していたときには、形状安定のものを買って、家で洗っていた。形状安定といえども、洗うとやはり皺ができて、彼女はそれにきちんとアイロンをかけてくれていた。
 衿や袖口の汚れなども気にしたことがなかったから、彼女がきちんとやってくれていたのだろう。
 それなのに、当時のぼくは洗濯機に入れて、ボタンを押せば終わるものだと思っていた。
 一時間の授業が終わり、二十分の休憩になる。
 調理実習は一時間半だと時間割に書いてあった。猿渡は、筆記用具を持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 一緒に授業を受けているのに愛想が悪いと思ったが、まあ中高生ではないのだから、休み時間も仲良くしなければならない理由はない。
 一階に降りると、また和室に他の学生たちがいるのが見えた。
 先ほど会話をした体格のいい男性が、片手を上げた。
「授業終わった? あの若い子は?」
「さあ......どこかで時間潰しているんじゃないですか」
 彼はその答えには興味を示さずに、玄関に置かれたラックを指さした。
「そこに、今日の調理実習のレシピが入っている。前日の夜からあるから、予習もできるよ」
 言われた通りラックに置かれた書類ケースを開ける。
 調理実習は一日二回。午前は煮込みハンバーグで、午後は鰺(あじ)の南蛮漬けが中心になった献立だ。考えて、午前の方だけを取る。今日は書類を綴じるファイルを持ってきていないから、汚したりなくしたりしてしまいそうだ。
 和室に座って、レシピを読む。キャベツのスープは材料を刻んで炒め、煮込む。サラダは野菜を洗って、水気を切り、ドレッシングを作るだけ。ハンバーグは、挽肉とつなぎをこねて焼き、トマト缶でソースを作って煮込む。レシピ自体はさほど難しいものではない。これならぼくでも問題なくできるだろう。
 料理はできないわけではない。いざというときに、やる気を出せばこのくらいは作れる。ただ、なかなかその気にならないというだけだ。
 時間になると、みんなが厨房に移動する。ぼくもそちらへ向かう。いつの間にか、猿渡も後ろからついてきた。
 厨房にいたのは花村校長ではなかった。三十代くらいの男性だ。
「じゃあ、みんな、準備を始めてください」
 エプロンを着ける人もいるが、そのまま手を洗い始める人もいる。全員が近くのシンクで手をきれいに洗い始めたので、ぼくも順番を待って手を洗った。洗い終えて蛇口を止めようとすると、男性の先生が言った。
「指の間まできれいに洗いましたか? あ、はじめまして。ぼくは講師の岡村(おかむら)です」
 少しぽっちゃりとしていて、人懐っこそうな顔をしている。ぼくも自己紹介をした。
 そう言えば、新型コロナのパンデミック初期は指や爪の間まできれいに洗うことを心がけていたが、いつのまにか適当になっている。
 見れば、他の生徒は、もう野菜を冷蔵庫から出したり、ボウルや容器を洗ったりと準備を始めている。なにをするか、先生から指示されるものだと思っていたぼくは、呆然とした。
 岡村先生は、米を量ろうとした生徒に声をかけた。
「新しい人にやらせてあげて」
 先生が猿渡に、米のはかり方と研ぎ方を教える。今日は生徒が六人いて、あとふたり食べるから八人分で四合の米を研ぐ。
 猿渡の様子を見ると、彼はまったく料理をしたことがないらしい。
 ぼうっと突っ立っていると、七十代くらいの柔和な顔をした白髪の男性が声をかけてきた。
「ソースの野菜を切るのを一緒にやりましょうか」
「あ、はい、ぜひ」
 ほっとする。ここでは、自分でやることを見つけて、動かなければならないらしい。
 白髪の男性は鷹栖(たかす)と名乗った。ぼくも名乗る。
「仲上です。よろしくお願いします」
 玉葱とにんじんの皮を剥き、ズッキーニと一緒に小さめの角切りにする。
「タカさん。玉葱もらえる? ハンバーグ用に」
 そう言ったのは、先ほど会話した体格のいい男性だ。
「はい。白木(しらき)さん、ひとつでいいですか?」
「一個半あると助かる」
「じゃあ、残り半分はソースに入れましょうか」
 ふたりがそんなことを言っていると、キャベツスープの準備をしていたグループが言う。
「うちも玉葱使うから、残ったら引き受ける」
 野菜を切り終わると、ぼくはまた立ち尽くしてしまった。
 鷹栖は、いつの間にかキャベツスープの準備を手伝っている。
 誰もがてきぱきと、言われなくても自分のやることを見つけて働いている。ぼくは低く唸った。なにをしていいのかわからず、棒立ちになる。
 この感覚には覚えがある。うまくいっている仕事のチームに、途中参加したときと同じだ。だとすれば、そのときと同じように振る舞えばいい。
 ぼくはレシピを手にとって、熟読した。ソースは野菜が切られただけで、また火にかけていない。
 ぼくは岡村先生に尋ねた。
「ソース作り始めていいですか?」
「ちょっと待ってね。白木くん、玉葱炒める?」
「あ、炒めます。ちょっと待ってください」
 たしかに、手順は大切だ。コンロは四口あるが、ガス台の前に立てるのは二人までだ。
 白木が玉葱を炒め終わると、岡村先生が言った。
「ソース作り始めていいよ」
 野菜を鍋に入れようとすると、鷹栖が気づいたように言った。
「にんにくは?」
 あわてて、レシピを見る。たしかににんにくのみじん切りを一緒に炒めると書いてある。
 火を止めて、にんにくを刻みはじめる。そのうちに、キャベツスープのグループがスープを煮込みはじめた。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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