山の上の家事学校第15回

 知っているようで知らないことばかり勉強した。
 アイロンのきれいなかけ方、水滴の跡が残らないガラスの拭き方、ボタン付けと、シミ取りの仕方。
 学生の頃、家庭科でやったような気もするが、その後の人生ではほとんど自分でやっていない。ボタンの取れた服は、いつかなんとかしようとクローゼットの中につっこんである。
 調理実習は一日二回。もともと、簡単なものなら、レシピを見れば作れると思っていたから、料理の腕がぐんと上がったとは思っていない。だが、他の人が調理している横で、自分が手伝える仕事を見つけられることや、もう使わない鍋や調理器具を探して、洗ったり、片付けておいたりすることはうまくなったと思う。
 猿渡が帰ってしまってから三日、思っていたよりも、ぼくは家事学校での生活を楽しんでいた。年齢の違う男性ばかりで、上も下もなく、見栄を張り合うこともなく、譲り合って実習や勉強ができることも楽しかった。先輩風を吹かせる人間がいない快適さに気づくと、この後、新しい人が入ってきても、自分もえらそうにするのはやめようと思える。
 たぶん、前にいた生徒たちが作ったそういう雰囲気が、継承されているのだろうと感じられる。
 家事のことも、もっと前向きに取り組めそうだ。

 その電話がかかってきたのは、ぼくが家事学校にきて、四日目の夕方のことだった。
 調理実習中、ポケットの携帯電話が振動していたことには気づいていた。だが、ミックスフライを揚げていた最中で、手が離せなかった。調理実習が終わり、みんなが料理を和室に運んでいるときに、ようやく携帯電話をチェックすることができた。
 電話は、鈴菜からだった。彼女がこんな時間にかけてくることは珍しい。急ぎでないときは、いつも夕食後、ぼくが少しくつろいだ頃にかけてくる。
 ぼくは、和室にいる人たちに先に食べてもらうように言って、廊下に出て、電話をかけ直した。
「もしもし、俺だけど」
 電話に出た鈴菜の声は、少し苦しげだった。
「ごめん。ちょっと相談があるんだけど......」
「なに?」
「おばあちゃんが友達との食事で、新型コロナもらってきちゃってさ。おじいちゃん共々陽性で、まあ三回目のワクチンはもう打ってたし、症状自体は軽症で自宅療養しているんだけど......」
 鈴菜の言うおばあちゃんとおじいちゃんは、彼女の両親のことだ。まだ六十代の快活な人たちで、ぼく自身はそう呼ぶのが憚られる。
「鈴菜と理央は?」
 理央は、義両親の家で昼間過ごしているはずだ。
「残念ながら、わたしも陽性。一緒に食事してたから......。で、問題なのが理央で、彼女だけ、PCR検査が陰性だったの」
 それはよかった、と言いかけて、ぼくはことばを呑み込む。今、鈴菜が困っている理由に気づいたからだ。
 今、陰性でもこのまま鈴菜と生活していれば、確実に感染してしまう。だが、理央自身もすでに濃厚接触者のはずだ。預かってくれるところを見つけるのは難しい。
 子供は軽症だと聞くけれど、感染を避けられるなら避けたいはずだ。
「すごくずうずうしいんだけど......和歌子さんやお義母さんに理央のこと頼めないかな......。わたしも熱が四十度近く出ていて、つらくて......」
 ぼくは考えた。頼めば、母や和歌子は嫌とは言わないだろう。しかし今、PCR検査が陰性でも、すでに理央も感染している可能性はある。そうなると、母や和歌子の家庭に感染を広げてしまうかもしれない。
 いくら身内でもそれは頼めない。
「ごめん。それは無理だと思う」
「だよね......本当、厚かましいこと言ってごめん」
「でも、俺が理央を預かることはできると思う」
 自然に口が動いていた。それ以外は考えられない。
 リフレッシュ休暇はまだ十日以上ある。ぼく自身は、去年感染していて、ようやく今年頭に二度目のワクチンを打ったばかりだ。
「今、リフレッシュ休暇中だから、家にいられるし、家だって、引っ越したばかりだからまだきれいだしさ」
 電話の向こうで彼女が少し躊躇しているのがわかった。たぶん、これまでのぼくの行動からまかせていいのか確信が持てないのだろう。
 だが、今はそれしか方法がないように思える。ようやく彼女は言った。
「じゃあ、お願いしていい?」

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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