山の上の家事学校第16回

 さっそく、まだ校長室にいる花村校長のところに行って、事情を話した。
 学校を立ち去らなければならないのは心残りだが、今は非常事態だ。
「来週分は返金できます。もしくはまたあらためて、週末や連休などのときに通うこともできますが、どちらになさいますか?」
 そう尋ねられて、ぼくは迷うことなく答えた。
「またきます」
「じゃあ、お急ぎでしょうから、手続きの書類はご自宅の方に送付しますね。今回は事情が事情ですから、寮の掃除もこちらでやっておきます。私物だけ持って帰ってくださってけっこうです」
 ぼくは頭を下げた。
「助かります。ありがとうございます」
 その後、生徒たちが食事をしている和室に向かう。たった四日のつきあいだが、ひとことも挨拶せずに、立ち去るのは寂しい。
「すみません。実は別れた妻が、新型コロナに感染してしまって、娘をうちで面倒見なければならなくなったんで、今日で失礼します。急ですけど......」
 また戻ってくるつもりだが、そのときに同じ生徒がいるとは限らない。特に親切にしてくれた白木や鷹栖との別れは、寂しい。
「ええっ、それはまた本当に急だなあ」
 白木も顔をしかめた。
「夕食も食べていかないんですか?」
 鷹栖にそう言われてぼくは首を横に振った。
「買い物もしたいし、レンタカーも借りたいんで......」
 濃厚接触者である理央を、電車で連れてくるわけには行かないだろう。今からレンタカーの予約を入れれば、ぎりぎり今日中に借りることができる。
 荷物は少しだから、すぐにまとめられるはずだ。
「じゃあ、後で食べられるように折り詰めに入れられる分は入れておきましょうか。荷物をまとめた後に寄ってくれれば渡せますよ」
 岡村先生がそう言って立ち上がった。たしかにそうしてもらえると助かる。
 和室を出て、ぼくは最寄りのレンタカーショップに予約を入れた。寮の自分の部屋で荷物をまとめていると、ドアがノックされた。
「開いてます」
 そう答えると、ドアが開いた。岡村先生が紙袋を持って立っていた。
「これ、今日の夕食。さすがに汁けの多い物は無理だけど、ミックスフライとごはんと漬け物と」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「それと、タクシー呼んだ方がいいなら、呼びますよ」
 それは助かる。このあたりは三十分に一本しかバスがない。それでもぎりぎりレンタカーショップが閉まるまでに間に合うとは思うが、タクシーの方がスムーズだ。
「すみません。お願いできますか?」
 荷物はもうほとんどキャリーケースの中だ。岡村先生がすぐに電話でタクシーを手配してくれた。
「十分でくるそうです」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
 キャリーケースと夕食の入った紙袋を持って外に出ると、寮の前に花村校長と、生徒たちが集まってくれていた。
 急に、胸がじんと熱くなった。たった四日なのに、長年つきあった大切な仲間たちと別れるような気持ちになる。
 ぼくはみんなに向かって頭を下げた。
「まだ、教わりたいことがたくさんあるんで、絶対に戻ってきます」
 花村校長は笑顔で頷いた。
「お待ちしていますよ」
 やってきたタクシーに乗り込み、振り返って手を振った。
 別れはいくつも経験しているが、こんなことをするのはひさしぶりだと思った。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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