山の上の家事学校第46回

 数日後、鈴菜からメッセージが届いた。
「今度の日曜日、理央を連れて動物園に行くけどどうする?」
 ぼくは即座に返事を打った。理央と会う日を決めてほしいと言われていたけれど、あんなことを言ってしまった記憶が鮮明で、こちらから連絡をする気にはなれなかった。
「もちろん、行くよ」
 そして呼吸を整えて、文字を打ち、すかさず送信する。
「このあいだは、無神経なこと言って、本当にごめん」
 少し間が開いて、返事がくる。
「わたしも少し言い過ぎたと思っている」
 全身の力が抜けた。自分から謝ることができてよかったと思った。まあよく考えてみると、動物園に誘ってくれたのは鈴菜で、そうでなければ、ずっとうじうじ悩んでいたかもしれない。
 天王寺に行くのかと思ったら、彼女が指定したのはモノレールの駅だった。
「屋内型の動物園があるんだって。今週末はあんまり天気がよくないみたいだから」
 週末の天気など気にしたこともない。ずっとそうだった。
「それとさ、理央が新しいパンツにかぎ裂き作っちゃったんだけど......まだ、繕いってやってる?」
 どきりとした。楽しいと思ったが、あれからはやっていない。
「やってないけど、やるよ。やらせてよ」
 八代が子供服にクマのアップリケをつけていたことを、ひどくうらやましいと思った。
「じゃあ、持って行く」
 待ち合わせ時間を決めて、携帯電話を置く。
 こうやって会う約束をしても、もうやり直すことはできないのだという寂しさは、間違いなく、ぼくの中にある。
 だが、たぶん、ぼくに今できることの中で、いちばん大事なのは、鈴菜の決断を尊重することなのだろう。そのくらいはわかってきた。
 だったら、この寂しさも抱えて生きていくしかない。


 約束の日、天気予報は夕方から雨だったが、空は朝から分厚い雲に覆われていた。ぼくは鞄の中に折り畳み傘を入れた。
 そういえば、政治部で働いていたときは、天気予報など気にしたことはなかった。朝、鈴菜が折り畳み傘を持たせてくれるときもあったが、そうでなければ、雨が降っても、コンビニでビニール傘を買うか、タクシーで帰ればいいと思っていた。
 折り畳み傘を持っているのに、ビニール傘を買って帰って、鈴菜に怒られたこともあった。玄関の傘立てには、ぼくが買ったビニール傘ばかり入っていたから、彼女が怒るのも無理はない。
 いったい、なにに追い立てられていたのだろうと、今になって思う。
 待ち合わせ時間ぴったりに、駅に到着すると、理央と鈴菜が手をつないで待っていた。
「パパ!」
 理央が走ってきて、ぼくの手を握る。あまりにも可愛くて、胸が痛くなる。
 理央の髪は、パンダの耳のようなお団子にされている。忙しくて余裕がないと言いながら、鈴菜はちゃんと理央が喜ぶようにヘアアレンジをしてあげているのだろう。
「可愛いな。そのヘアスタイル」
 そう言うと、理央はにっと笑った。
 向かったのは、水族館と動物園が一緒になった、不思議な施設だった。カワウソや、ワオキツネザルなどが近くで走り回るのを見たり、カラフルな熱帯魚をガラスの水槽越しに観察したりできる。
 理央は目を輝かせて、展示ガラスに貼り付いている。
 ぼくは鈴菜に思い切って言った。
「最近、政治部にいたときのことを、よく思い出すんだ」
「ふうん......」
 興味のなさそうな相づちが返ってくる。当然だろう。
 やりがいはもちろんあった。自分が書いた記事が一面を飾ったことも何度もあったし、ぼくのことを気に入ってくれた国会議員もいた。先輩や同僚と、一緒に夜遅くまで走り回り、いつも疲れていたが、それは少しも苦にならなかった。
 ただ、今思うと、そのときの自分のやりがいとはいったい何だったのだろうと思う。命をかけて、不正を追い求めたわけでもなく、世の中をよくしようとさえ考えなかった。
 閣僚に顔を覚えてもらい、親しくなり、他社より少しでもくわしい話を聞こうとした。
 それに意味がなかったとは思っていない。常に閣僚におもねっていたわけではなく、彼らの問題発言を真っ先に記事にしたこともある。
 ただ、思い出してみても、そこに、理央と暮らせなくなってもかまわないと思えるほどの価値はない。
 夜遅くまでクラブで酒を飲み、心にもないおべんちゃらを繰り返し、同僚と一緒に、自分たちは報道の第一線にいるのだと自負した。
 そのときは誇らしいと思っていたけれど、自分が楽しかったのかどうかがわからない。
 まるでサイズの合わない服に、無理に身体を合わせていたようだ。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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