山の上の家事学校第24回

 実習を終えて、夕食を食べるために厨房に行くと、和室から生徒たちが談笑する声が聞こえてくる。
 まだお酒を飲みながら、話を続けているのだろう。先ほど一緒だった受講者は、ふたりとも自宅からの通学だったから、夕食はひとりで寂しく食べなければならないと思っていた。
 カレーをあたため、炊飯器からごはんをよそい、残ったごはんは一膳ずつ冷凍にする。他の人の分の後片付けはもう終わっているから、食べ終わったら、自分の使った食器を洗えばいい。
 家事をすることは、たぶん、先を見通すことに似ている。自分のことだけ考えれば、ごはんはそのままにして、炊飯器を洗わなくてもいい。ここではそれで叱られることはない。だが、炊飯器に放置したごはんはおいしくないし、翌日、炊飯器を使う前に洗うのは手間がかかる。
 冷凍したごはんは、おかわりがほしい人が、自由に解凍して食べていいことになっている。このシステムなら、カリキュラムのせいで、食事が遅くなっても、その日に炊いたごはんは人数分確保されていることになる。
 冷蔵庫の冷凍室には、冷凍ごはんはもうなかった。カレーだとおかわりをしたい人が増える。
 ぼくは、トレイに夕食をのせて、和室に向かった。
 五人ほどの生徒が、ビールやお茶を飲みながら談笑している。
「仲上さん、お疲れさまです」
「あ、どうも」
 堀尾に声を掛けられて、ぼくは軽く会釈した。
 和室には白木の姿はなかった。
「白木さんはどうされたんですか?」
 彼はいつも、最後まで残ってみんなと話をしている。社交的なタイプの彼が、早々に自室に戻ってしまうのは珍しい。
「スマホのバッテリーがなくなったから、充電してくると言っていたんですけど、そのまま帰ってきませんね。疲れて寝てしまったかな?」
 そういうこともあるだろう。
 野菜と豆のたっぷり入ったキーマカレーはおいしかった。野菜嫌いの子供も喜んで食べそうだ。
 デザートの八朔を食べる頃には、ぽつぽつとみんな、風呂に行き始めた。
 ぼくも食べ終わった食器を持って、厨房に戻り、食器を洗う。シンクのゴミは、前に後片付けをした人が片付けておいてくれていた。自分が出したゴミだけをまとめて捨てる。
 自宅だったら、絶対に翌日にまわすところだが、ここではちゃんとやらなければと考えてしまう。
 自宅の狭いキッチンは、プライベートな場だが、ここはそうではない。キッチンは共有スペースだ。
 社会だな、とふと思う。ひとりで洗い物をしているのに、家と違って、他者の存在を意識している。それがとても新鮮だった。
 片付けを終えて、自分の部屋に戻る。風呂はちょうど混んでいるようだったから、もう少し遅くなって入るつもりだった。
 外に出たとき、鶏の鳴き声がした。夜なのに珍しい。
 見れば、学校の玄関に車が停まっているのが見える。こんな時間になんだろう。不思議に思って、自然に足が向いた。
 そこには、白木が立っていた。車から、女性が降りてきて、白木になにかを渡す。
「悪かったよ。助かった。まさか充電器を忘れるとは、俺もおっちょこちょいだよな」
 女性はなにも言わなかった。黙っていても、とげとげしい空気が伝わってくる。
 近づくべきではない。きびすを返そうとしたときだった。女性が言った。
「わたし、明日からしばらく実家に帰る」
 白木が少し乾いた声で笑った。
「俺がいないんだから、家にいればいいじゃないか。ひとりでのんびりとさ」
「なにが目に入っても腹が立つの。少し家から離れたい」
「俺がいなくてもか?」
「あなたがいないことにもよ。きちんと話したいのに、いつも逃げるようにここにきて、わたしの話なんかちっとも聞こうとしない」
「しつけが悪い犬は、しつけ教室に戻った方がいいだろ」
「そんなこと言ってない。わたしのことばに、勝手に尾ひれをつけないで」
 離れた場所で、ぼくは身体を強ばらせて動けない。重苦しい沈黙が続く。
 白木が小さな声で言った。
「今度、戻ったらちゃんとやるよ......」
「何度も、同じことを聞いた」
 ぼくは考える。白木は今、戻るべきなのだ。戻って彼女と話すべきなのだ。
 だが、白木の気持ちも痛いほどわかる。たぶん、今、それをすることに耐えられない。子供が注射から逃げ回るように、目の前の話し合いだけは避けたいと思ってしまう。
「俺......そろそろ戻らないと、やらなきゃいけないことがあるからさ」
 白木の声が聞こえて、絶望的な気持ちになる。やらなければならないことなど、この時間にはないし、あったとしても家族との関係以上に優先されるものではない。
「戻ったらさ、うまいものでも食べに行って、そこで話そう。ほら、近所に焼き肉屋できただろ」
 他人のことなら、なぜ、こんなにはっきりわかるのだろう。求められていることはそういうことではない。
 女性は諦めたように言った。
「そうね」
 白木があきらかにほっとするのが伝わってくる。だが、彼女は提案に乗ったのではない。失望しただけだ。
「じゃ、わたしも行く。好きなだけここにいればいい」
 車のドアが閉まり、エンジン音がかかる。それに紛れるように、ぼくは寮まで早足で戻った。
 階段を駆け上がろうとしたときだった。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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