山の上の家事学校第45回
「仲上さん、今は週末だけですか?」
「そうです。土日だけ泊まりがけできてます」
月曜日の朝、少し早起きをして、ここから出勤する。白木はビールのプルトップを開けて機嫌良く言った。
「ぼく、ちょっと悩んでたんです。もうこなくてもいいかなって。でも、料理を習うのは楽しいから、料理のクラスだけ、ときどきくることにしました」
どきりとした。もうこなくてもいいかなと思ったのは、妻との関係が修復できたからか、それとももう決定的にこじれてしまったからか。
だが、白木の表情は明るかった。
「ぼくね。妻と相談して、夕食作りを担当することにしました」
「えっ、大変じゃないですか」
いろんな家事はあるが、夕食作りはいちばんの大仕事ではないだろうか。掃除や洗濯は、二、三日なら休むことはできるが、夕食は毎日作らなければならない。
白木は片手を振った。
「いや、もちろん子供がいたりしたら本当に大変だろうし、ぼくひとりではできないです。でも、妻は大人で、ぼくが忙しくて作れない日は自分でなんとかできるし......だから結局ちゃんと作ってるのは、週に三日くらいかな。煮物やスープは翌日も食べられる量を作ったりするし、野菜は休みの日にまとめて茹でて少しずつ使ったり、冷凍したり......今のところ、なんとかやってます」
そういえば、白木はいつも料理の手際がよかった。
アボカドと海老のサラダは、簡単なのに、ごちそうらしさがあって、ワインなどにも合いそうだ。ローストポークも、ローズマリーの香りがよくておいしかった。一緒に焼いたにんじんやごぼうや、ニンニクにも、豚の旨みが移っている。
「ぼくね。食べることが好きなので、つい、『味付けはこうした方がいいのに』とか『もう一品あればいいのに』とか言っちゃってたんですよね。そのたびに、『文句を言うなら自分で作ればいい』と言われてました。実際、料理は好きだったので、たまに気が向いたとき作ってはいたんですが、なんのかんの言って、分担することからは逃げていました。でも、ふと気づいたんです。もしかしたら、自分が料理の担当になったら、自分が妻に要求していたことを、彼女からも要求されるかもしれないと思ってることに」
ぼくは白木の顔をまじまじと見た。
「でも、それを怖がるのはおかしいですよね。自分が言われたくないなら、言わなきゃいい。それに彼女は、ぼくの料理に文句をつけたことなどなかった。あきらかに失敗したようなときも、責めたりはしなかった。だから、思い切って言ってみたんです。完璧じゃないし、できない日もあるけど、夕食はなるべくぼくが作ろうかって」
「すごいです」
お世辞ではなく素直な気持ちで、ぼくはそう言った。正直、もし鈴菜と復縁することができたとしても、夕食作りを全部引き受けるような大胆な提案はできそうにない。
「いやいや、だからちゃんと作るのは週三日くらいしかやってないんですよ。あとは前日作ったものをあたため直したり、野菜と肉を切るだけの鍋とか、もしくはぼくが遅くなって妻が作ったり、そんな感じです」
そう言いながらも、白木は自信にあふれた顔をしていた。ぼくにもわかる。人にまかせっきりにせず、自分で生活をまわすことができるという気持ちは、確かな自信になる。
「彼女も最初は半信半疑みたいでしたが、一ヶ月以上続けて、ようやくぼくが、本気だと言うことを理解してくれたみたいでした。彼女は、ぼくの料理を褒めてくれることはあっても、無闇に文句をつけたりはしない。自分がなにを怖がっていたのか、バカみたいだと思いましたよ。家事を担当することは、完璧にやることを要求されることだと思っていた。でも、彼女が求めていたのは、家をまわすことを他人事ではなく受け止めるということだった」
心からうらやましいと思った。彼は自分の不安をきちんと言語化して、それを乗り越えることができた。
たぶん、彼と妻との関係もいい方に変わっていくだろう。不安から目をそらして逃げるのではなく、お互いを信用して、それをことばに出すことができるのだから。
ふいに思う。今の自分が考えていることはわかる。後悔していることもはっきり言える。
だが、離婚する前、自分が本当はなにを考えていたのかということがあまり思い出せないのだ。鈴菜に甘えていたのは確かだが、愛してなかったわけではない。理央のことだって、もちろんなによりも愛していた。なのに、あの頃の自分のことが知らない人間のように思えてくる。
知らないはずはないし、わからないはずはない。ぼく以外、ぼくのことを本当に理解することなどできないはずだ。
なのに、どうしてなにもかもが、こんなに遠いのだろう。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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