山の上の家事学校第14回

 一度、自分の部屋に帰り、風呂の支度をして、また部屋を出た。
 ドアに鍵を閉めて、歩き始めたとき、人の気配を感じた。振り返ると、アパートの外階段に猿渡がぽつんと座っていた。片手で惰性のようにスマートフォンを弄んでいる。
 思い切って声をかけた。
「学校のでかい風呂に行かないか? きっと気持ちいいよ」
「いいっす。俺、シャワーしかしないんで」
「おおっ、今時の子だねえ」
 そう言いつつ、ぼく自身も長いことシャワーばかりだったことに気づく。寒い日は湯船に浸かりたいと思うこともあったが、掃除が面倒なのと、ユニットバスではくつろげないから、シャワーで済ませていた。
 ぼくは、階段に腰掛けた。猿渡は、少し迷ってから口を開いた。
「校長、怒ってましたか?」
「いや、特には」
 なぜか舌打ちが返ってくる。
「俺、もうやめます。向いてないし。楽しくないし」
 少しだけ息苦しく感じた。校長の言ったように、彼はまだ子供だ。だから、本気で責めるつもりはない。
 彼がやめると言ったのは家事学校のことで、家事そのものではない。だが、以前友人が言ったことばを思い出した。
 彼は妻に、家事をもっと分担するように言われて、ふてくされていた。
「俺さあ、ああいう生産性のない作業って向いてないんだよね」
 そのときは、勝手なことを言うなあと思いつつ、聞き流していた。ぼくだって、彼を責められるほど家事をやっていなかった。
 だが、すべての人が向いていないと言って、投げ出してしまえばどうなるのだろう。洗われない洗濯物、出されないゴミ、部屋には埃が溜まり、とても快適には生きられない。
「ぼくはちょっと楽しくなってきたかな」
 そう言うと、猿渡は驚いた顔になった。
「楽しく?」
「そう。ずっとコンビニ飯とかばかりだったから、自分で揚げ物作って、ビールと一緒に揚げ物が楽しめると思ったら、ちょっと楽しくなってきた」
 猿渡はなにも言わなかった。
「猿渡くんは、普段、誰に食事を作ってもらってた?」
「週二回、家事サービスの人がきて、作ってくれました。あとはその作り置きを食べたり、たまにデリバリーとか、外食だとか」
 そう言えば、彼の保護者は家事サービスを利用していたと、前に聞いたことがある。
「なんとなくいいところの、ぼっちゃんぽいなあー」
 多少収入がないと、家事サービスを週に二回も頼まないだろう。
「そんなことないです。叔母は仕事で忙しいから......」
 彼はそうつぶやいた後、口をつぐんだ。
 叔母というのが、その保護者なのだろうか。だとすれば、彼の両親はどうしたのだろう。
 彼はしばらく黙った後、口を開いた。
「さっき、俺の話聞いてました?」
「全部じゃないけど、少しだけね」
「校長の言うことは、正論だけど、でも、世の中そうなってないじゃないですか。偉い人には人を使って嫌な仕事をさせる権利があって、賢かったり、金を稼いでいたりすると、それをやらなくてもいい。それが世の中じゃないですか?」
「そうだね......」
 猿渡の言うことは、ある意味では正しい。ぼく自身が、鈴菜に対して優位に立ち、家事をやらずに済ませてきた。
 そして、それで関係を破綻させてしまったから、わかるのだ。人が寄り添って生きるのはそういうものではないのだと。
「俺は、誰かに踏みつけにされたくないから、頑張って勉強しました。志望大学にも合格できました。結婚相手も、ちゃんと家事をやってくれる人を選びます。それじゃダメなんですか?」
「つまり猿渡くんは、自分が優位に立てる人と結婚したいってことだよね」
 彼ははっとした顔になった。
「そうは言っていません」
「じゃあ、もし、猿渡くんが病気になったり失業したりして、猿渡くんの妻が外に出て稼ぐようになったら、その人がやりたくないことを、全部、猿渡くんに押しつけてもいいってことにならないかな」
 猿渡はぽかんと口を開けた。そんなこと考えてもみなかったという顔だった。
「ぼくの意見を言うと、たとえ、失業したとしても、嫌なことを全部押しつけられる必要なんかない。家族ってそんなものじゃないだろう。でも、つまりは逆でも同じことだ」
 そう言いながら、遠くで、もうひとりのぼくが笑っている。結婚生活に失敗したくせに、どの口で、と。
「まあ、ぼくも結婚に失敗したから、えらそうなこと言える立場じゃないけどさ」
 そう言って笑いながら、猿渡の顔をのぞき込んだ。
 猿渡の顔は泣きそうに歪んでいた。


 翌日、猿渡は荷物をまとめて、学校を去って行った。
 なぜかぼくは、彼にまた会えるような気がしていた。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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