山の上の家事学校第25回
「仲上さん!」
後ろから白木の声がした。彼は走って戻ってきたようだった。もしかしたら、気づかれていたのかもしれない。
「もしかして、聞いてました?」
「いや......玄関前に車があるから、ちょっと気になって近づいたんですけど、すぐに戻ってきました」
ぼくはごまかすようにひと息で言った。白木は、寮の階段に腰を下ろし、スマートフォンの充電コードを弄ぶ。
「もう、いつもあんな感じなんですよ。売り言葉に買い言葉みたいになってしまって......いつもギスギスして......」
ぼくが聞いていたかのように当たり前に話し始める。ぼくも観念して、白木より上の段に腰を下ろした。
「距離を置いて、昔みたいになごやかでいられるなら、その方がいいと思ってしまうんですけど......たぶん甘いんでしょうね」
「別れた後に会ってくれるかどうかは、向こう次第ですからね」
ぼくも、一ヶ月に一度しか理央に会えないし、それすらもいずれできなくなるかもしれない。鈴菜が再婚でもしてしまえば、もう会うのは簡単ではなくなるだろう。
「ねえ、仲上さん、考えたことありませんか。俺のこと好きなら、そのくらいやってくれたっていいだろうって」
ぼくはことばに詰まった。
「食器を流しまで持って行かないこと。洗濯物を洗濯籠に入れてないと言われること。夜遅く帰ってきて、洗濯物を干したままの浴室で、片付けるのが面倒だから、そのままシャワーを浴びて、翌朝、文句を言われること。そのたびに、思うんです。俺のことが好きなら、そのくらい我慢してくれたっていいだろう。文句を言う暇があったら、その間にちゃっちゃとやってくれたらいいじゃないかって」
言い訳をするように、白木は早口で話し続ける。
「わかってますよ。甘えてることは。でも、外にいれば敵やライバルだらけで、くつろげるのは家だけなのに、家でもそんなことばかり言われると、うんざりするんです。もちろん、俺だって、なにもやっていないわけじゃない。たまには料理も作るし、掃除だってします。それなのに、まるでなにもやってないみたいに言われてしまうのは......なんというか......理不尽だなって......」
ぼくはためいきをついた。
「わかりますよ。めちゃくちゃわかります」
「でしょう!」
彼の気持ちはよくわかる。そして、自分自身もそう考えてしまうからこそ、それが自分勝手であることもわかるのだ。
「でも、だったら、相手も同じなんじゃないでしょうか。自分のことが好きだったら、ちゃんと話を聞いてほしいって思うんじゃないでしょうか」
そう言った後、ぼくは慌てて付け加える。
「ぼくは結局、結婚生活に失敗した人間です。だから、これを言うのはおこがましいですし、後悔にすぎません。でも、失敗したからこそそう考えてるんです」
ぼくは白木の顔を見ずに話し続けた。
「結婚していたときは、外で働いて金を稼ぐことが、家族のためだと自負していました。だから、家のことなんかやらなくても愛していることには変わりないって。でも、ひとりになってからも、ぼくは仕事をやめていない。当たり前です。働かなきゃ生きていけないし、働くことで、社会からの承認も得られる。まわりを見ても独身の人がみんな遊んで暮らしているわけじゃない」
それなのに、家族のために働いていると言って、パートナーの訴えに耳を貸さない自分はずるかったと思う。
何度話しても、自分のことばが聞き流されている状態で、愛しているのだと言われても、それを信じることは難しいだろう。なのに、「愛してるならそのくらいやってくれてもいいだろう」と言われても、そこにある「愛情」とはなんなのだろうと考えてしまうのではないだろうか。
白木はなにも言わなかった。反論もしなかった。
「思うんですけど......」
「はい」
彼が相づちを打ったことにほっとする。
「ぼくたちは、家事と愛情を結びつけたくなるし、ケアをしてもらえることが愛情だと思ってしまいがちだけど、それはもしかしたら違うんじゃないかなって」
母が弁当を作ってくれたり、ぼくの好きなものを作ってくれた行為の中には、たしかに愛情は存在するだろう。でも、愛情以外に、責任なども存在していたはずだ。そこから愛情だけを抽出して、他の要素を見て見ぬ振りをすることは、間違っているのではないだろうか。
こんなことを考えたのははじめてだ。
最初の授業で、花村校長から聞いたことばを思い出す。
(家事とは、やらなければ生活の質が下がったり、健康状態や社会生活に少しずつ問題が出たりするのに、賃金が発生しない仕事、すべてのことを言います。多くが自分自身や、家族が快適で健康に生きるための手助けをすることで、そして、賃金の発生する労働と比べて、軽視されやすい傾向があります)
校長はひとことも、誰かへの愛情だとは言わなかった。
そして、もし、ケアと愛情を結びつけるなら、こちらがそれを受けるだけでいいはずはない。相手のすることだけ、愛情と結びつけて、自分は切り離す。それはあまりに都合のいいふるまいだ。
ケアと愛情を結びつけるなら、自分もちゃんと相手をケアするべきなのだ。
考えたことは、そのまま自分の心に突き刺さる。
白木がどんなペースで料理を作っているのか、掃除をしているのかは知らないが、自分がやりたいときにだけやり、それ以外のときはなにもしないのなら、それは公平とは言えない。
「もちろん、結婚していることだけが幸せだとは思わないし、距離を置いた方がいい関係だってあるとは思います」
それでも、彼はまだ自分の妻に愛されたいと思っているのではないだろうか。
白木が小さな声で言った。
「耳が痛いな......」
ぼくは笑った。
「失敗した人間の言うことなんて、別に聞かなくていいですよ」
それでも、思うのだ。ぼくが失敗しているからこそ、少しは彼の耳に届くのではないだろうか。もし、ぼくが妻とうまくいっている男なら、上から目線のアドバイスに聞こえるだろう。
もしかすると、二十年くらい早く生まれていれば、こんなことで悩むことはなかったのかもしれない。
だが、それはそれで息苦しいこともたくさんあっただろうし、なによりもそんなことは願っても不可能だ。
植民地時代に戻りたいというイギリス人やフランス人がいたら、なんて自分勝手なことを言う奴だろうと、誰もが考えるだろう。それと同じことだ。
白木が立ち上がった。
「でも、気持ちはわかるって言ってくれてほっとしましたよ。甘えるなって言われるかもしれないと思ってました」
そのことばに思わず笑ってしまう。
「いや、本当にわかります。めちゃくちゃわかります」
言語化していなかっただけで、ぼくだって同じ気持ちだった。
ふと思った。自分勝手な思いであっても、それを誰かと分かち合うことには、意味があるのかもしれない。
まだ取り戻せるかもしれない場所にいる彼を、ぼくはうらやましいと思う。だから言った。
「でも、もうぼくには甘える相手はいませんから」
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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