山の上の家事学校第2回
母に会いに行ったのは、その週の土曜日のことだった。
まだ政治部にはいるが、感染して以来、政治家に貼り付いて、オフレコの話を聞き出すような仕事からは離れてしまった。記者会見や、国会などの記事を主に担当しているから、前よりも時間がある。
大阪への異動がほぼ、本決まりになったことの報告と、移動前にリフレッシュ休暇を使い切れという上司からの指示もあり、母を旅行に連れて行ってやれないかと思ったのだ。
十日間のリフレッシュ休暇と、残っている有休を足すと、二十日くらいは休める。コロナ禍でもなければ、海外旅行にだって行けるはずだが、さすがに今は無理だ。それでも、国内をゆっくり見て回るくらいならできるだろう。
古い小さな一軒家からは、子供の声が聞こえてきた。どうやら、妹の和歌子(わかこ)と、亮太と茜がきているらしい。
インターフォンを鳴らして中に入った。
鍵の開いたドアを開けると、茜を抱いた義弟の仁太朗(じんたろう)が顔を出した。仁太朗はひょろりと背が高く痩せているから、木に可愛い小猿が抱きついているみたいだ、なんて思う。
「あ、お義兄さん、ご無沙汰しています」
茜はまだ三歳だ。顔を見ると、理央の幼かった頃を思い出して、胸が痛くなる。
「和歌子もきてるのか?」
「朝、急な仕事が入ったそうなので、後からきます」
母は亮太と一緒に、ソファに座っていた。亮太が携帯ゲームの画面を見せながら、とりとめのない話をしているのを、にこにこ聞いている。
ぼくの顔を見ると、母は亮太に言った。
「おばあちゃん、おじちゃんとお話があるから、ゲームしてなさい」
「はーい。おじちゃん、こんにちは」
自分におきかえて考えてみる。もし、鈴菜がいないときに、鈴菜の両親の家に子供を連れて行って、なごやかにやれるかと思うと、考えただけで胃が痛くなってくる。鈴菜の両親が、特に困った人だというわけではないが、なにを話していいのかわからないし、考えただけでも「無理」という結論しか浮かばない。
だが、仁太朗はそれをさらりとやってのける。聞いたところによると、和歌子が急にこられなくなり、仁太朗と子供ふたりだけでやってきたことも何度もあるらしい。母も仁太朗のことが気に入っている。
なにが違うのか。コミュ力か。会社員だが上司に交渉して、育児休暇を三ヶ月取り、下の世代から大感謝されたという話も、和歌子から聞いた。
母が立ち上がって、コーヒーメーカーからコーヒーを注いでくれる。
「あのさ......前にも話したけど、俺、四月から大阪に異動になると思う」
「そう。じゃあ、理央ちゃんとも頻繁に会えるね」
会わせてくれるかどうかはわからない。
「まあ、離婚はしても親であることには代わりはないし、子供はあっという間に大きくなるから、その方がいいわね。鈴菜さんによろしくね」
「それとさ......もしよかったら、来月、旅行にでも行かないか。リフレッシュ休暇もあるし」
去年、感染して長い休みを取ったから、有休を取るつもりはなかったが、今の方針は社員の尻を叩いてでも、有休を取らせるという考えらしい。必ず取るようにと、上司に念を押されてしまった。
「いやです。あんたとふたりで旅行に行っても、全然気が休まらないし」
即答されてしまった。普通、母親というものは、息子が旅行に連れて行ってやると言えば、大喜びするものではないのだろうか。
そう考えてから、はたと気づく。
その「普通のイメージ」はどこからきているのだろうか。
ドアが開いて、和歌子の声がした。
「お母さん、遅くなってごめんね。お昼にお寿司買ってきたから、一緒に食べよ」
リビングにきてから、和歌子はちょっと困ったような顔になった。
「なんだ。お兄ちゃんきてたの?」
ぼくは慌てて言った。
「お、俺はもう食べてきたから」
運悪く、そのときにお腹がぐうと鳴った。和歌子は、仁太朗の方を振り返って言った。
「ピザを一枚取りましょう」
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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