山の上の家事学校第6回
翌朝は鶏の声で目を覚ました。
身体を起こして、ためいきをつく。顔を洗い、前日に買ってきた菓子パンと牛乳で朝食にした。
幸い、コンビニエンスストアはバス停の近くにある。もう少し歩けばスーパーもあるし、そこまで不便なわけではない。
持ってきた荷物を使いやすそうな位置にしまうと、授業時間が近づいてきた。
筆記用具と携帯電話だけを持って、ぼくは学校に向かった。
玄関で靴を脱ぎ、中に入る。一階の和室では、また生徒たちがお茶を飲んで喋っていた。そこに混じろうとすると、同世代に見える体格のいい男性が言った。
「おはよう。一時限目は、新入生は二階で授業だよ」
「一緒じゃないんですか?」
「うん、授業は一度受けたらそれで終わりだから。俺たちは実習をやる。もし、洗濯物があったら持ってきたらいいよ。一緒に洗うから」
きたばかりだから、さすがに出すようなものがないし、なにより知らない男性に自分の汚れ物を洗ってもらうのは気が引ける。
「二時限目の調理実習のときにまた会おう」
「よろしくお願いします」
和室を出ると、ちょうど猿渡が階段を上がっていくところだった。よく見れば、玄関にある黒板に、新入生は二階の柳の間、それ以外は実習と書いてある。
ついでに、調理実習のところに、「煮込みハンバーグ、グリーンサラダ、キャベツのスープ」という文字を見つけた。料理はまったくできないわけではないが、自分ではなかなか作らないメニューだ。少し楽しみになる、
二階に上がって、柳の間という部屋に入る。和室に、机と椅子が二セットだけ置いてあった。前方にはホワイトボードがあった。
猿渡は片方の席に座って、ノートと筆記用具を出している。ぼくも空いている方に座る。
「おはよう。これからよろしく」
猿渡は、ぴょこっと頭だけ下げた。
時間ちょうどに、花村校長が入ってきた。
「おはようございます。これからよろしくお願いします」
よく通る声で言う。
「お二人とも、はじめてですから、まず、この学校での家事の定義をお伝えしますね」
家事の定義なんてわざわざ言うまでもないだろう。そう思ったが、校長は話し続ける。
「家事とは、やらなければ生活の質が下がったり、健康状態や社会生活に少しずつ問題が出たりするのに、賃金が発生しない仕事、すべてのことを言います。多くが自分自身や、家族が快適で健康に生きるための手助けをすることで、しかし、賃金の発生する労働と比べて、軽視されやすい傾向があります」
そんなふうに考えたことはなかった。ぼくは背筋を伸ばした。
「フルタイム労働をしていると、どうしても家事は後回しになってしまいます。やる気のあるなしだとか、几帳面さだけの問題ではなく、長時間労働をやりつつ、家庭の仕事までやるのは、ハードルが高いのです。今の日本は、家庭に一人専業の家事労働者がいるという前提で、社会のシステムが形成されています」
できないこと、やっていないことを責められるとばかり思っていたが、そう言われたことで、少しだけ罪悪感が和らぐ。
「でも、社会のシステムがそうなっているからと言って、おろそかにすると、健康状態や快適な生活の維持に問題が出てくるかもしれません。この学校では家事の技術をお教えします。生徒さんの普段の生活に取り入れる場合は、そこまでできないと思われることもあるかもしれません。でも、普段の生活で、それを完璧にこなさなければいけないわけではなく、日常的には、取り入れられるところだけ、取り入れればいいのです。知識の少ない状態よりも、知識や経験がある方が、効率もよくなりますから」
ふいに猿渡が手を上げた。
「質問していいですか」
「どうぞ」
「校長は、家事を外注することについて、どう考えていますか」
この前も猿渡は、ぼくに外注しないのかと聞いた。なぜ、それに拘るのだろう。
校長はにっこりと笑った。
「社会全体で、ある特定の人に家事労働をさせることには反対です。たとえば、移民をたくさん入れて家事従事者として雇い入れるとかね。でも、ひとりひとりの人間には事情がありますし、向き不向きもあります。仕事の忙しい人や、料理や掃除の苦手な人が、お金を払って家事代行サービスを利用するのは、なんら責められることではないと思いますよ。先ほども言ったように、長時間労働をしながら、家事もやるのはハードルが高いことですから。でもね」
校長は、息を吸って、また口を開いた。
「家事が人間にとって必要な労働だと考えない人は、お金を出して、それをしてもらおうとも思わないでしょうね。それに、人に頼むのも実はそんなに簡単なことじゃない。どうしてほしいか、この時間でどのくらいの労働をしてもらえることが適切かを知らなければ、外注も難しいと思いますよ。たとえば、週に二時間だけきてもらう人に、あらゆる家事を全部こなしてもらうのは難しいでしょう。外注をするからといって、家事のやり方をまったく知らなくてもいいとは思いません」
よく質問を受けるのか、校長の答えもなめらかだった。猿渡はまだなにか言いたそうにしていたが、それ以上は質問しなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
「せっかく、授業料を払ってきているのですから、ぜひ、生活に役立つことを持って帰ってください。そして、くれぐれも、ここで得た知識を、誰か......家族でも、知らない誰かでも、別の人ができていないことや、完璧でないことを責めるために使わないでください。自分自身ができなかったときにも、できないことを責めないでください。もし、そういうことに使うなら、知識や技術は、生活を豊かにすることではなく、貧しくする方に働いてしまいます」
はっとした。そんなことを考えたことはなかった。これまで後悔ばかりしてきた。家事学校にきたら、できないことを責められるのではないかと思っていた。
なんとなくわかった。ここは、ぼくが頭で思い描いていたような家事学校ではない。
「さあ、じゃあ洗濯の授業を始めましょう。まずは洗濯表示の読み方からね」
校長はそう言って、コピー用紙をぼくと猿渡に配った。
洗濯表示くらい知っている。そう思ったが、紙に並ぶ記号を見て、ぎょっとした。
なにもわからない。いや、見たことがないわけではない。洗面器のようなマークも、四角いマークも、三角のマークも目にしたことはある。だが、なんの意味かはわからない。
洗面器のマークは、てっきり手洗いだと思っていたが、その横に「洗濯機での選択可能」という文字を見て、頭を抱える。
三角が漂白剤に関する印だなんて、知識がなければ絶対にわからない。
ぼくはおそるおそる手を上げた。
「なんですか?」
「あの......これ、ぼくが知っているものとは少し違うような......」
たしか昔、家庭科の授業で習ったのは、こんな記号ではなかった。花村校長はにっこりと笑った。
「2016年の12月製造分の衣類から、変更になりました。だからまだ新しいわね」
つまり、ぼくが学校で習ったぼんやりした知識はもう役に立たないわけだ。ためいきが出る。
もしかすると、調理実習などで覚えた知識もそうかもしれない。歴史の年号が変わるように、家事の知識もどんどんアップデートしなければならないのだろうか。
ぼくは気持ちを引き締めて、コピー用紙に視線を落とした。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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