山の上の家事学校第19回
結局のところ、その三日後にぼくも熱を出し、検査の結果、晴れて陽性となった。
二回目の新型コロナウイルス感染である。
幸い、症状は熱だけで軽く、前回ほど苦しむことはなかった。
初日はデリバリーで食べ物を注文し、二日目からは鈴菜がダンボール箱で救援物資を送ってくれた。
ぼくのリフレッシュ休暇の大半は、自宅療養で潰れてしまったことになる。
それでも、無駄にしてしまったような気分にならないのは、大事な人のために役に立ち、感謝されたという実感があるからだ。
山之上家事学校から届いた書類を読みながら、考える。
たった四日通っただけだから、それだけで家事の技術が上がったわけではない。それでも、自分の仕事ではないと考えていた家事という仕事を、自分のやるべきこととして考えられるようになった気がする。
頑張ってやったことには、なにがしかの反応が返ってくるのだということもよくわかった。
週末や空いている日などを利用して、少しずつ通えば、もっとうまくできるようになるだろうか。
鈴菜とやりなおせるという希望までは持っていない。ただ、彼女と良好な関係を保ち、理央とときどき一緒に過ごせる父親でいたい。
そのくらいなら、できるかもしれないと思った。
大阪支社に出社すると、ぼくは、幅木(はばき)デスクの机に向かった。
「仲上さん、ひさしぶり。新型コロナは大変やった?」
隔離期間の関係で、出社が三日ほど遅れたから、事情は話してある。
「一度目ほどは、きつくなかったですけど、二回かかるなんて勘弁してほしいです......」
「ええやん。流行に乗ったということでさ」
幅木とは、彼女が本社にいたときも、ときどき話をした。気さくで、飾り気のない女性だが、本社で働いていたときは関西弁じゃなかったような気がする。
「幅木さん、関西出身でしたっけ?」
「生まれは東京だけど、小学校の頃、何年か兵庫にいたからさあ。住むとすぐ影響されちゃって」
理央のイントネーションのことを思い出した。自分の知っている理央が消えていくようで、寂しくなってしまう。
ともかく、しばらくは家庭面を中心に、文化面のヘルプや書評コーナーなどを担当することになる。
「ところで、仲上さんって、料理できたっけ」
幅木に尋ねられて答える。
「ちょっとだけです。自信はないけど、まあ、簡単なものならレシピ見たら作れる、という程度です」
そんな状態で家庭面を担当していいのかとは思うが、読者が全員料理上手なわけでもないだろうし、下手な人間の意見も必要だろうと自分を納得させる。
「じゃあ、自炊とかしてるの? 今は独身だよね」
「まあ、ちょっとだけですけどね」
三週間ほど前、東京にいたときは、コンビニ弁当ばかり食べていたことを棚に上げ、ぼくはそう答えた。
実際、今は少しだけ料理をするようにしている。もちろん、自慢できるようなものではない。だが、家事学校で覚えた韮と卵の味噌汁は、しょっちゅう食べているし、週に一度はラタトゥイユを作って、三日くらいかけて食べる。SNSで見かけた、鶏もも肉をレンジで照り焼き風にするメニューも、簡単でおいしいのでよく作っている。
自炊のいいところは、自分が食べたいものを作れるところだと思う。コンビニで買うのは楽だが、そこにあるものから選ぶしかない。
最近は、魚が食べたいなと思えば、ネットで簡単なレシピを検索して、作ったりもしている。
まあ、仕事が始まっても作れるかどうかはわからないが、無理のないように続けていきたい。
「仲上さん、前からそうだった?」
幅木にそう尋ねられて、ぼくは苦笑いしながら答えた。
「いえ、以前は全然です。でも、今は独り身だから、自分でやらないと本当に食生活が乱れるので......早死にしたくないですし」
「意識が変わったきっかけってあったの? 健康診断とか?」
ぼくは少し考えた。
「きっかけは、妹に怒られたことですけどね。でも、娘がいるんで、娘が大人になるまでは元気でいたいし、あんまり老け込みたくないですから。身体を悪くして、娘に迷惑掛けるのも嫌だし」
だが、やはり自分が本当に変わったのは、家事学校に行ってからではないだろうか。
「実は、リフレッシュ休暇のはじめの方、ちょっとだけですが、男性だけの家事学校に行ったんです」
そう言うと、幅木は何度かまばたきをした。
「男性だけの家事学校って山之上家事学校?」
やはり家庭面のデスクだけあって、名前は知っているらしい。
「娘を預からなくちゃならなくなって、短い間しかいられなかったんですけど、すごく勉強になったし、意識も変わりました」
ふと思った。山之上家事学校を、紙面で紹介してはどうだろう。
今は、昔よりも生涯未婚率が上がっているし、独身男性の幸福度の低さや、寿命の短さはいろんなところで話題になっている。
それに対する、ひとつの答えになるかもしれない。
「そうなんや。仲上さんにはよかったんや。わたしの知ってる人は全然意味なかったって言ってたけど、人によって向いてる、向いてないは違うもんね」
幅木のことばに驚いた。
「意味なかったって、通ってた人がですか?」
猿渡のように、家事をさせられることを受け入れられなかったり、集団生活に馴染めなかったりする人もいるかもしれない。
「ううん、友人の連れ合いが通っていたんだけどさ。その男性、熱心に通ってはいるけど、結局家ではなにもやらないんだって。それだけでなく、友人がやってる家事に口を出したり、マウント取ることばかりが上手になって、うんざりするって友人が言ってた」
幅木はそう言った後、慌てて付け足した。
「もちろん、それは学校が悪いんじゃなくて、その人が悪いんだと思うよ。習ったことをきちんと自分で実行するのも、せずに人に文句ばかり言うのも、その人次第やしね」
「ですね......」
そう相づちを打ちながらも、ぼくは上手く飲み込めずにいた。
学校では、得た知識で、他人を批判するなと言われた。それでも、そうしてしまう誘惑に逆らえない人がいるのだろうか。
「友人の連れ合い、ハンサムやし、感じがいいし、出会った頃は友人もベタ惚れやったんやけどね......でも、結婚して長くつきあうには、それだけじゃあかんってことやよね。うちの連れ合いなんて、全然ハンサムじゃないし、料理も出来ないけど、それでも出したものはおいしいおいしいって食べるし、コンビニ弁当でも喜ぶもん」
最後は、幅木の惚気(のろけ)を聞かされた。
ぼくは思い切って尋ねた。
「そのお友達の名前、うかがってもいいですか?」
「白木。白木保子(やすこ)」
ぼくは息を呑んだ。
「ぼく、たぶん、その人のお連れ合いの方知っています」
「え、そうなの?」
同じ姓の人かもしれないが、そこまでよくある姓でもない気がする。あの親切で、気遣いを欠かさない白木が、家ではそんなふうに振る舞うとは信じられない。
だが、完全にありえないとまでは、思わない自分もいる。
ぼくも知っている。知識や能力は、ときどき、暴力として作用することだってあるのだ。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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