山の上の家事学校第43回
「わたしはね、できるかぎり、男性がどうとか、女性がどうとかは言わないようにしてきました。この学校にくる人には、それぞれ違う事情があります。男性でも家事をメインで担っている人もいるし、これから担おうとしている人もいます。なにより、家事をやるのは、パートナーだったり、家族だったり、まわりのだれかを助けるためではないと思っているからです。その人自身が生きるために家事が必要だからです」
花村校長は眼鏡を机の上に置いて話し続けた。
「パートナーがいて、その人が普段、主になって家事を担当することはなにも悪くない。お母さんにやってもらうことも、それ自体は悪いことではない。その家族の選択です。でも、その家事をやっている人が、常に健康で問題なく家事ができるとは限らない。もし、その日がきたとき、残された人がなにもできないと、生活はとたんに回らなくなる。わたしの母などはね、不調を感じていたのに、自分がいなくなると家のことをする人が誰もいなくなるから、と、検査や入院を先延ばしにしていました。気が付けば、手の施しようのない状態になっていました。そんなことが何十年か前までは決して珍しくなかった。今だってまったくないとは言えないでしょう」
ぼくは息を呑んで、花村校長を見た。
「鈴菜さんはなにもひとりで抱え込んではいないと思います。ご両親を頼って、自分のやりたいことを実現しようとしているのでしょう」
「でも......なら、どうして彼女は、あんなに苦しそうなんでしょうか」
「仲上さんは苦しかったですか?」
思いもかけないことを言われて、ぼくは戸惑った。
「ぼくが......?」
「仲上さんは、娘さんの育児を鈴菜さんにまかせて、仕事ばかりを頑張っていたとき、苦しかったですか? 今の鈴菜さんは、そのときの仲上さんと同じでしょう」
いきなりハンマーで殴られたような気がした。
苦しいなどと思ったことはなかった。鈴菜がいつもちゃんとやってくれると思っていた。自分はちゃんと父の役目を果たしていると信じていた。
答えられないでいるぼくから目をそらして、花村校長は窓の外を見る。
「わたしは、家事をやることに男性も女性も関係ないと思っています。それでも社会から押しつけられる圧力は全然違う。そこは認めないと公正ではありませんね」
「鈴菜が苦しんでいるのは、彼女が女性だから......」
「それもあるでしょうし、なにより、母だからでしょう。母にのしかかる重圧は桁違いです。もちろん、シングルファーザーにはまた違う苦しみと圧力があるでしょう」
その違いは、わずかにだが想像がつく。世間で求められる男性像を維持したまま、子育てをするのはどう考えても大変だ。
「仲上さんは、もう少しの間娘さんと一緒にいた方が鈴菜さんも幸せかもしれないと言いましたよね。あと、どのくらいですか? 娘さんはおいくつ?」
「六歳です......」
「あと、五年経ってもまだ小学生で、その先は受験やいろんな壁がありますよね。働く女性はむしろ子供が小さいときよりも、小学校高学年になったりしたあたりで、仕事を辞める選択をするというデータもあります。保育園のように預かってくれる場所もどんどん減っていきますし、習いごとなどをするのにも、お母さんのサポートが不可欠というケースは少なくない」
自分自身がなにも考えていないことを突きつけられたような気がした。
「もし、あと十年家にいたとして、それだけの期間、フルタイムで働いていない女性を、社会がどう扱うか、おわかりですよね」
言われてみれば、今の職場にも、それだけの期間、休んで復帰してきた女性などいない。子供を持ってフルタイム労働をしている女性は、だいたい産休や育休の後、継続的に働いている人ばかりだ。
「鈴菜さんは、今、その社会に抵抗しようとしているんだと思います。もちろん、娘さんと一緒にいたい気持ちも、消耗したくない気持ちもあるでしょう。でも、だからといって屈したくないと思っているんでしょう」
ぼくは必死に頑張ろうとしている人に、「そんなに頑張らなくてもやっていけるじゃないか」と言ってしまったようなものだ。
ぼく自身は、育児を鈴菜にまかせっきりで、罪悪感など抱いたこともなかったのに。
「消耗する必要などないというのも、ある意味では真実だとは思います。変わらない社会に戦いを挑んだって、正直負けてばかりです。でもね、仲上さん」
花村校長は、ぼくの目をじっと見た。
「母親の人生は、子育てが終わってからも続くんですよ」
当たり前だ。なのに、ぼくはその言葉に凍り付いている。
そんなことを考えたことがなかった。母は孫の面倒を見たり、習いごとをしたり、好きなことをして暮らしていると思っていたが、母の世代はそもそも選択肢すら少なかったし、ぼくたちの世代は、母のように年金だけで生活していくことは難しいだろう。
鈴菜を愛していると言いながら、ぼくは本当に親身になって、彼女の今後を考えてきたのだろうか。
どこかで、「女性の人生なんてこんなものだ」などと甘く考えていたのではないだろうか。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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