山の上の家事学校第20回
家事学校への復帰は大型連休を利用することにした。
電話で相談し、その前の土日も一泊で滞在し、授業を受けることにした。たぶん、前回と同じ人たちには会えないから、また知らない人たちと交流しなければならない不安もあるが、あそこにくる人たちなら、大丈夫だろうとも思える。
送られてきた時間割をチェックして、子供のヘアアレンジの授業があることも確かめた。理央だってあと何年か経てば、自分で髪を結うようになるだろうし、出番はないかもしれないが、機会があるなら、覚えておきたい。
理央の面倒を見ている期間、ただ、髪を結ぶだけでも理央を痛がらせてしまったし、彼女が持ってきた飾りのついたヘアゴムを、どう使うかもわからなかった。
ずっと一緒に暮らしてきたのに、いったいなにをやってきたのだ。誰に責められたわけでもないのに、罪悪感がじくじくと疼いた。
なぜ、自分の仕事ではないと思ってしまったのだろう。ぼくだって、理央の親なのに。
仕事で忙しかったことは事実だ。だが、愛おしくて、きちんとケアが必要な自分の子供よりも、仕事の方が大事だと思っていたわけではない。仕事よりも理央の方がずっと大事だ。理央と鈴菜を失わないために、ぼくはもっと早く立ち止まるべきだったのだ。
先日、理央を数日間預かって、鈴菜に感謝されたことは、ぼくにとってのかすかな灯火になっている。
やりなおすことは難しくても、ふたりにとって信頼できて、いざというときは頼れる元夫でいたい。
鈴菜と理央のためだけではない。ぼく自身が、自分の人生を大事に思える気がするのだ。
金曜日の夜、退勤後に職場の近くで夕食を済ませて、ぼくは山之上家事学校へと向かった。
二週間くらい滞在するつもりだった前回と違い、今回は日曜の夜には帰る。勝手もわかったし、荷物もそれほど多くはない。一泊くらいの出張によく使う、小型のキャリーバッグさえ、すかすかだ。
前にも乗ったバスで、山道を行く。今回は取材の話も、花村校長に切りだしてみるつもりだ。もちろん、断られるかもしれないが、ぼくは山之上家事学校を紙面で紹介することに、意義を感じていた。
女性やマイノリティの生き方の多様性には注目されても、男性の生き方の多様性は、それほど重要視されているとは思えない。今は結婚することが必ずしも当たり前ではなくなっているし、ケア労働を人に押しつけるような時代ではない。
山之上家事学校のような場所を必要としている人間は、他にもいるはずだ。
トンネルを抜けると、里山らしい風景に変わる。渓谷にかかる橋、生い茂る果樹園。高層ビルが建ち並んでいる職場の近くとは、まったく違う。
山で育ったわけでもないのに、この光景に懐かしさを感じてしまうのはなぜだろう。
もう覚えた道を、キャリーバッグを引きずって歩き、家事学校の門をくぐる。
今日は鶏たちは、もう鶏小屋で休んでいるようだ。
食事をとる和室には灯りがついていて、賑やかな笑い声が聞こえてくる。夕食の時間にしては遅いが、話が弾んでいるのだろう。
「こんばんは。仲上です」
引き戸を開けて、学校の中に入り、玄関脇の校長室をノックした。
「どうぞー」
歌うような花村校長の声がする。
「また、お世話になります」
校長は、椅子に座ったまま、老眼鏡をずらして笑いかけた。
「よくまたいらしてくださいましたね」
「またここで学べることがうれしいです」
校長は、引き出しから寮の鍵を出して、ぼくに渡した。
「この前と同じ部屋です。ゴールデンウィークが終わるまで、誰も使わないから、貴重品以外なら、そのまま置いていっても大丈夫ですよ」
「助かります」
着替えなども、わざわざ一度持って帰らなくてもいいならとても助かる。
「そうそう、ゴールデンウィークは、猿渡さんも戻ってきますよ」
「そうなんですか?」
叔母という人に説得されたのか、それとも気持ちが変わったのか。戻ってくるからには、前と態度が同じということはないだろう。
取材の話を切り出そうかと思ったが、校長は書類を手になにか作業をしている。もう夜八時を過ぎているから、日をあらためた方がよさそうだ。
「じゃあ、生徒の皆さんに挨拶してきます」
ぼくはそう言って、校長室を辞した。
キャリーバッグを玄関に置いたまま、和室を覗く。
和室にいるのは、四人だけだった。この前よりも少ない。その中に鷹栖の顔を見かけて驚いた。あれから、一ヶ月以上経っているのに、彼はまだこの学校に通っているのだろうか。
鷹栖がぼくに気づいて、片手を上げた。
「やあ、仲上さん、またお目にかかれてうれしいですよ」
「こちらこそ、お世話になります」
「明日からですか?」
五十代くらいだろうか。日焼けして、人懐っこい笑顔の男性が話しかけてくる。
「明日明後日と土日の授業を受けて、今度はまたゴールデンウィークに十日ほどきます」
そう言うと、鷹栖は目を細めて微笑んだ。
「わたしは、明日朝に帰ります。ゴールデンウィークもこちらにはきませんし、いいタイミングで会えてよかった」
それを聞いて、少し寂しくなる。せっかくまた一緒に調理実習ができると思ったのに、入れ違いになるようだ。
ふいに、さきほどの男性が言った。
「えーと、仲上さんでしたっけ。ぼくは堀尾(ほりお)です。ぼくもだいたい土日にきてます。今週は金曜日休みが取れたので、今日から参加しましたけど」
ぼくは畳に座って頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「仲上さん、白木さんはご存じですか?」
どきりとした。彼のことは、幅木から名前を聞いてから、ずっと気に掛かっていた。
「ええ、前回、とても親切にしてもらいました」
「彼も明日からまたくるそうですよ。なんでも、奥さんから、まだ不十分だから、もっと勉強してくるように言われたとか......」
「へえ......そうなんですね」
笑みを浮かべたつもりだが、顔が引き攣っているのがわかる。
幅木が話していた白木保子さんというのは、やはり、あの白木のパートナーなのだろうか。
もうひとりの若い男性が堀尾に言う。
「白木さん、あんなになんでもできるのに、ヨメさん、なにが不満なんですかね」
「めちゃくちゃ厳しいよなあ。白木さんくらいできてもダメなら、俺自信なくしそう」
「鬼ヨメじゃないですか? 鬼ヨメ」
ドッと笑いが起こったが、ぼくは笑えなかった。
もし、幅木からなにも聞いていなかったら、ぼくも思っただろう。あんなによく気が回って、親切で、手際もいいのに、どこに不満があるのだろう、と。
だが、ぼくたちが知っている白木の顔と、彼の妻に見せる顔が同じとは限らないのだ。
ぼくだってそうだ。同僚や仕事で会った人が知っているぼくと、鈴菜にだけ見せていたぼくの顔はまったく違っていた。
同僚との約束を破ったことなどなかったのに、鈴菜との約束は何度も破った。ぎゅっと胸が痛む。
むしろ家族にしか見えない顔があることは、いいか悪いかは別として、当たり前のことだと言えるのに、なぜかぼくたちは、自分の知っている顔だけで他人を評価してしまう。
ここで、知らない白木の妻の悪口を言って、笑うことは簡単だ。頑張っても受け入れてくれないわがままな女性が悪いのだ、と思うことができる。
これまでも、同じような場面で、笑ったり、悪口を言ったりする選択をしてきた自覚はある。だが、それで本当になにかが得られたのだろうか。
ぼくは、畳から立ち上がった。
「じゃあ、俺、荷物の整理するんで......」
「ああ、じゃあ仲上さん、また明日」
堀尾に言われて微笑み返す。
そのとき、ふと、鷹栖と目が合った。彼は笑ってはいなかった。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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