山の上の家事学校第40回

 ぼくが家事学校に行ったのは、翌週の週末だった。
 金曜日の夜に到着して、鍵をもらいに学校のある母屋に向かう。どうやら、花村校長はいないらしく、校長室をノックしても、誰も出ない。
 和室に向かうと、岡村先生がひとりでスマートフォンを弄っていた。
 いつもこの時間は、生徒たちが夕食後も残って、おしゃべりに興じているはずだ。
 なにかがおかしい。そう思った。
「ああ、仲上さん。鍵預かってますよ」
 そう言って寮の鍵をぼくに渡す。
「すみません。ありがとうございます」
 厨房の方からは、かすかな水音がするから、誰かが後片付けをするために残っているのだろう。
 岡村先生が立ち上がった。
「じゃあ、ぼくは帰ります。今日は校長が帰りが遅くなると言うので、十一時に風呂に入ると言っている粟山さんに施錠してもらうことにしてます。もし、それ以降に風呂に入りたいなら、粟山さんから鍵を預かって、仲上さんが施錠してもらえますか?」
「わかりました」
 たまたま今日は人が少ないだけなのだろうか。違和感を抱えたまま、厨房をのぞくと、粟山がひとりで食器を片付けていた。
「仲上さん、こんばんは」
「今日は後片付け、ひとりなんですか?」
 いつもは三人くらいでするはずだ。
「いや、さっきまで他の人もいました。あとは、食器を片付けるだけでたいしたことないし、もういいよ、と言ったんです」
 粟山の様子はいつもと変わらない。ぼくは声をひそめた。
「なにかあったんですか?」
 なにもなければ、「なにかってなんですか?」などと聞き返されると思っていた。
 だが、粟山は表情を曇らせた。ぼくは慌てて言う。
「いや、いつもなら、みんな遅くまで和室で話しているのに、今日は誰もいないから......」
 たまたま、交流を望まない生徒ばかりがきているという可能性もないわけではないが、それも不思議な気がする。
「うーん......なんて言っていいのかなあ。ちょっと昼間、トラブルが起きましてね。それで、生徒がひとり、強制退学になったんですよ。花村校長は彼を車で自宅まで送って行きました」
 ぼくは息を呑んだ。強制退学になるようなトラブルというのはなんなのだろう。
「いったいどうして......」
「まあ、ひとことで言うとセクハラというか......」
「花村校長に?」
 そう言ってから後悔する。もし花村校長が被害者なら、彼女が送って行くはずはない。男性同士の間でもセクハラは起こりえる。
「いや、生徒の間です」
 粟山は言いにくそうな顔をしている。無理に聞き出さない方がいいのかもしれないと思ったが、なにがあったか知らないままでいるのも居心地が悪い。
「仲上さんはデリカシーのある方だと思っているのでぼかさず言いますけど、生理用品を持っている人がいましてね......。それを見つけて、取り上げて、揶揄した生徒がいたんです」
「ああ......」
 ようやくぼんやりとわかってきた。
 以前、堀尾が遠藤のことをトランス男性ではないかと言っていたことを思い出した。遠藤かどうかはわからないが、性別移行手術をしていないトランス男性がいて、その人が生理用品を持っていることは充分にありえる。
 そして男性同士の集団で、それを見つけた人が、デリカシーの欠片もない行動を取る可能性だって少ないとも思えない。
 ぼくは思わず尋ねた。
「堀尾さんですか?」
 粟山はなぜか、目を丸くした。
「え? 堀尾さん? なんで?」
 そのすぐ後に、玄関の引き戸が開く音がした。重い足音が聞こえる。
「粟山さん、ゴミ出してきたけど、もうやることない? 先に、風呂入っていい?」
 その声は堀尾だった。


 退学になったのはぼくの知らない生徒だった。
 堀尾を疑ってしまったことが心苦しくて、ぼくは時間をずらして風呂に行くことにした。十一時半から入りたいと言って、粟山から学校の鍵を借りた。
 堀尾が風呂に入った後、粟山は声をひそめてぼくに言った。
「わからなくもないです。堀尾さんもあんまりデリカシーないタイプの人ですもんね。でも、堀尾さんはそいつのこと、止めてましたよ。正直、ぼくも意外な一面を見たと思いました」
 それを聞いて、疑いなく堀尾だと思ってしまった自分が恥ずかしくなる。
 一度、寮に戻って時間を潰し、十一時半を少し過ぎた頃、風呂に入りに行った。
 ひとりで足を伸ばして、広い湯船に浸かる。
 ふうっとためいきをつく。
 トラブルの現場にいなくてよかったと思ってしまう自分が嫌だった。
 堀尾と会話したときは「よくないですよ」と言えたが、粟山が言ったようなことをやった人を前にして、真っ先に止められたかというと、少し自信がない。
 一対一ならまだ、言葉を選びながら言える。だが、向こうが多数派だったりすると、口をつぐむ自分しか見えないのだ。
 だが、すぐに気づく。
 ここでは誰かが止めた。堀尾も止めたと聞いた。それだけではなく、すぐに問題になって、その行いをした人間を退学にすることができた。
 退学を決めたのは、花村校長だろう。他の先生に、そこまでの権限はないはずだ。
 やり過ぎだという人もいるかもしれない。だが、ここの生徒たちは子供ではない。
 誰かの尊厳を傷つける人を許さない。今、そう言い切れる場がどれだけあるだろう。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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