山の上の家事学校第18回
大変じゃなかったと言えば嘘になる。
正直言うと、理央を預かるなんて言わなければよかったと何度も思った。
せっかく用意した食事を、「これ、好きじゃない」と言って、食べないこともしょっちゅうで、気に入った服がないと言っては、癇癪を起こして泣く。ひとつしかないテレビのチャンネル権は完全に奪われたし、ゆっくり本を読むことなど、とうていできなかった。
何度も怒鳴りたくなるのを、必死に堪えた。
わかっている。濃厚接触者だから、外出もできず、家じゃないから、理央の大事なものが全部あるわけではない。理央もストレスが溜まっている。
ぼくは、情けなくも、理央の食べたいというものだけを与え、テレビを見たい、ゲームをやりたいという要求に、完全に屈した。
理央の好きなアニメのDVDボックスまで買った。一万五千円以上したが、それで理央が大人しくしてくれるのなら安いものである。
野菜を食べさせることもできなかったし、食事前にお菓子を食べたがることも制止できなかった。歯磨きを済ませた後、ジュースを飲ませたこともある。
へとへとになりながら、考える。
一緒に生活していたとき、鈴菜がこんなことをしているのを見たら、ぼくは小言を言っただろう。
「そんな時間にお菓子を食べさせるな」とか、「寝る前にジュースなんて」とか、「アニメなんか、テレビでやっているんだから、わざわざDVDなんか買わなくていいだろう」とか。
もし、今ぼくが誰かにそんなことを言われたら、怒りのあまり、「だったら、おまえがやってみろ!」と叫ぶだろう。
穴があったら入りたいとはこのことだ。
五日目に、理央が三十七度五分の熱を出したときには、正直、少しだけほっとした。もちろん心配する気持ちもあるが、彼女は熱があっても元気そうだ。
鈴菜に電話を掛ける。
「その後、どう?」
「ようやく熱が下がってきて、楽になってきた。味覚はまだ戻ってないし、咳もまだ出るけどね」
理央が発熱したことを伝えると、鈴菜はためいきをついた。
「やっぱり感染しちゃったか......」
まだ検査は受けてないが、たぶん間違いないだろう。
「理央が熱出したのなら、うちで面倒見られるね。おばあちゃんはもう元気になってるから、車で迎えに行ってもらう。幸彦は? 大丈夫?」
「俺は今のところ大丈夫っぽい」
もちろんこの先はわからない。だが、去年感染しているし、ワクチンを打ったのも最近だから、比較的感染しにくい状況だろう。
「大変だったでしょ」
少し含み笑いをしながら、鈴菜が言った。
「いや、マジ。あんなに大変だとは思わなかった。お菓子食べさせるのも阻止できなかったし、テレビもゲームもやりたいだけやらせてしまった」
荷物の中に、英語学習のDVDなどもあったが、それを見せる余裕などなかった。
鈴菜が楽しげに笑った。どきりとした。彼女がそんなふうに笑うのをひさしぶりに聞いた気がする。
「でも、本当に助かった。理央を預かってくれたことも、こないだいろいろ買ってきてくれたことも......。幸彦、ちょっと変わった?」
そう言われたことにぼくはなぜか狼狽した。
「いや、俺も去年かかってるしさ......なにが欲しいかはわかるから」
「そのとき、わたし、なにもしてあげなかったね」
「そりゃ、大阪と東京だったしさ、俺は大人だからなんとかできるし......」
「そう言ってくれてありがと。じゃあ、なるべく早く、おばあちゃんに迎えに行ってもらうね」
住所を告げて、電話を切る。
理央がぼくの背中にもたれかかる。少し熱っぽいその重みが愛おしい。
「お家帰るの?」
「うん、おばあちゃんが車で迎えにくるって」
「ヤッター! DVD持って帰ってもいい?」
「ああ、いいよ」
彼女がうれしそうなことがちょっと寂しいが、それは仕方ない。理央の家はあちらなのだ。
鈴菜の母から、もうすぐ到着するというメッセージが入る。ぼくは理央の荷物を持ち、彼女の手を引いて、マンションの前まで出た。
うちには駐車場がないから、長いこと車を停めることはできない。
見覚えのある車が、路肩に停まった。助手席のドアが開く。
「幸彦さん、今回は本当にありがとう。一家全員寝込んでしもたから、助かったわあ」
颯爽(さっそう)とサングラスを掛け、白いシャツをセンスよく着こなした、鈴菜の母が笑いかける。
どう見てもおばあちゃんという雰囲気ではないが、理央は機嫌良く「おばあちゃーん」と抱きついている。
彼女と会うのは離婚してからはじめてだ。きっと再会は気まずいものになるのではと予想していたが、状況が状況だけに、彼女もにこやかだ。
彼女がそう接してくれるのも、ぼくが短い間だけでも理央を預かったからなのだろう。
「これ、預かってた理央の着替えです。だいたい洗ってありますが、昨日着た服とパジャマだけはまだ洗濯してなくてビニール袋で分けてます」
「ほんまありがとうね。しばらく大阪にいるんでしょ。またうちにも遊びにきて」
「機会があったらぜひ」
助手席に座った理央に、シートベルトを装着してやる。
「じゃあ、鈴菜さんによろしくお伝えください」
鈴菜の母は手を振ると、助手席のドアを閉め、車を出発させた。
張り詰めていた神経が、一気に緩む気がした。
部屋に帰って、ドアを閉めた。ローテーブルの上に、理央に買ってやったお菓子の空(から)のパッケージが投げ出されていた。
自分では絶対買わないキャラクターのカードが付いた、チョコレート菓子。それを捨てるとき、ちょっと涙が出た。
一人きりで生きるのは、なんて気楽で、そして寂しいのだろう。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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