山の上の家事学校第5回

 学校内には、広い厨房があった。
 旅館だったというのも納得する。七人くらい一緒に調理をしても、余裕がありそうだ。授業に使われているという教室は板張りで、中高生のとき使っていたような、簡素な机と椅子が並んでいる。
 それから、少人数制の授業のとき使うという、畳の部屋がいくつか。
 その後、寮の方も見せてもらった。六畳一間にミニキッチンとユニットバスがついた古いタイプのアパートだが、個室なのはそれだけでありがたい。どうせ、何ヶ月も住むわけではない。何週間かのことで、それならば不満はない。
 その場で入学の申し込みもできるというから、ぼくは記入していくことにした。学費は後日振り込みでかまわないという。猿渡は考えるのかと思ったが、彼も申込書を書くことを選んだ。
 記入が終わったとき、和室から笑い声が聞こえてきた。
 花村校長がちらりと時計を見た。
「バスでお帰りになるでしょう。ちょっとまだ時間があるから、今きてる生徒さんに会っていきますか?」
 ぼくたちの返事を待たずに、校長は襖を開けた。
 和室のテーブルを囲んで、年齢もばらばらな男性たちが五人座っていた。
 上は七十代くらいから、ぼくと同世代の男性もいて、二十代くらいの若者もいる。
「みんな、ちょっと聞いて。来週からいらっしゃる新しい生徒さんたちです」
 校長がそう言うと、五人は思い思いに軽く頭を下げた。
 彼らの顔よりも、ぼくはテーブルに並んだ料理の方に目を奪われた。
 味噌汁、青菜のおひたし、切り干し大根の煮物、豚肉と茹で卵の煮込み。食卓の真ん中には白菜の漬け物まである。
 あまりにおいしそうで、思わず唾を飲み込む。
「午後の授業には必ず調理実習があるから、夕食はここでそれを食べられます。もちろん、強制ではありませんが」
 見れば缶ビールも置かれている。授業が終われば、酒を飲むのも自由なのだろう。
 ぼくと同じくらいの年齢の男性が言った。
「まあ、予定がない限りはみんな食べますよ。ここで教えてもらう料理はおいしいし、上下関係なく、のんびり話ができるのも楽しい。ぜひ、お待ちしてますよ」
 ぼくは「よろしくお願いします」と頭を下げた。猿渡は黙ったまま、ひょこりと頭だけ動かした。
 空腹を抱えたまま、学校を出て、バス停に向かう。猿渡が口を開いた。
「どうして、この学校に来ようと思ったんですか?」
 いきなり人に質問する前に、自分のことから話したらどうだとは思ったが、まあ十代の頃の自分も礼儀正しかったとは言えない。
「離婚して、自分のことは自分でやらないといけなくなったし、自分の面倒もみられなくなって孤独死するのも嫌だからねえ」
 孤独死という単語には抵抗を感じるのに、それでも人にはそう言ってしまう自分が嫌になる。雑に使えて、伝わりやすいことばなのかもしれない。
「でも、家事を外注することだって、できるでしょう。俺の保護者はそうしてます」
 外注する。まったく考えなかったわけではないが、あまり現実的とは思えなかった。
「家に知らない人が入ってくるのは面倒くさくないか?」
 そう。面倒くさいから、家事を放置しているのに、人を呼ぶのはまた面倒を抱え込むことだ。自分のまわりの独身男性でも、家事を外注している人間などいない。
 夫婦共働きで子供を持っていて、週に一度家事サービスを呼んでいるという人なら知っているが、そのくらい切羽詰まらないと、選択肢には浮かばないと思う。
 彼が黙り込んだので、ぼくは反対に尋ねてみる。
「猿渡くんだって、家事学校に行くんだろ」
「行きたくて行くわけじゃないです。大学が京都になって、一人暮らしをすることになったので、保護者がその前にひととおりできるようになっておけって......。まあ、学生だと外注はできないし」
 彼には大阪のアクセントはまったくない。東京の人間かもしれないと思う。
「保護者」とあえて言うのが、少し不思議な気がしたが、複雑な事情がありそうなので、こちらも触れない。
「まあ、俺は離婚してから一年、いろいろ荒んだ生活してしまったので、実感するけど、やっぱり家事はできないよりは、できた方がいいよ」
 若いうちからやっていれば、ぼくみたいに結婚に失敗することもないかもしれない。
 猿渡はぼくのその言葉には返事をしなかった。


 引っ越しは何度もしたことがあるが、家族がいるときの引っ越しと、単身のときの引っ越しでは労力がまるで違う。
 あっけないほどの身軽さで、ぼくは大阪に引っ越した。
 家電なども離婚したときに、最低限のものを入手しただけで、あとは本と服だけ。しかも、家族で住んでいた3LDKのマンションを引き払い、ワンルームの部屋に引っ越したとき、どうしても必要なもの以外は処分した。
 一年間住んだ部屋には、少しも愛着がなかった。ただ、穴蔵に帰って眠るだけといった感じで、そこを心地よい場所にしようとは思わなかった。
 変われるのだろうか。鬱々とした毎日ではなく、結婚していたときのように生活していることを楽しいと感じられるようになるのだろうか。
 今はまだ少しも実感が持てなかった。


 山之上家事学校に向かったのは、入学する前日の最終バスでだった。
 荷物はキャリーバッグひとつ。まあ、なにか足りなければすぐ自宅に取りに戻れるくらいの距離だ。
 今日は鶏たちは小屋に入っているらしく、声さえしない。到着時間は連絡してあったから、母屋で鍵をもらい、寮の自分の部屋に入る。
 とりあえず、二週間はここがぼくの城になる。たった二週間で変われるかどうかはわからないが、その後も土日だけだとか、夕方一時間だけなど、自分の望む形で授業は受けられるという。
 たしか、猿渡も明日から入学だと聞いた。もらったカリキュラムを壁に貼る。
 明日の一時限目は、洗濯の授業だと書いてある。二時限目は調理実習。
 必修の授業がいくつかあり、その中に自由選択の授業もある。やはりいちばん回数が多いのは、調理実習だ。一日に午前、午後の二回は必ずある。
 自由選択の授業は、編み物や、育児研修から、消火活動まである。編み物をやろうとは思わないが、意外に幅が広い。
 子供のヘアアレンジなどという授業を見つけて、どきりとした。保育園に行く前、理央は色とりどりの髪ゴムで髪を結んでほしいと鈴菜にねだっていた。
 鈴菜は時間のないときはふたつ結びにして、時間のあるときは、三つ編みにしたり、お団子を作ったり、可愛い髪型にしてあげていた。
 それを微笑ましく見ながら、ぼくは一度も、自分がそれを理央にやってあげることなど想像もしなかった。
 今はもう、覚えたって使う機会などこないけれど。
 シャワーを浴びて、置いてある布団を敷く。新しい部屋ではないが、布団は自宅の布団よりもふかふかで、太陽の匂いがした。干したばかりの布団だ、と思う。
 引っ越しの疲れが溜まっていたのかもしれない。ぼくは吸い込まれるように眠りに落ちていった。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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