山の上の家事学校第37回

 翌朝、ひどく早い時間に目が覚めた。
 まだ朝の五時半だ。お腹が空いて、テーブルの上を探したが、買ったはずのパンが見つからない。
 どこに忘れてきたのだろう。
 記憶を辿る。昨日、昼の休憩時間にコンビニに行き、夜飲むためのビールと袋に入った惣菜パンを買った。ビールを冷蔵庫に入れた後、みんなが集っている和室に行って、そのまま話に加わった。
 そのまま、午後の調理実習に参加してしまったから、和室に置いてきたのだろう。部屋まで持って帰ってきた覚えがない。
 学校が解錠されるのは朝の七時以降だが、もしかすると誰かいて、鍵を開けてもらえるかもしれない。
 誰もいなければ、そのままコンビニまで歩いて行けばいい。
 顔を洗って服を着替えて、学校に向かう。
 なにげなく引き戸に手を掛けると、鍵はかかっていなかった。するすると開ける。不審者と間違えられないように、「おはようございます」と声をかけた。
 返事はないが、人の声がぼそぼそと聞こえてくる。
 誰かいるのだろうか。
 ぼくは靴を脱いで、上がった。和室に向かい、パンとペットボトルのお茶が入ったレジ袋を見つける。
 声は厨房の方から聞こえてくる。岡村先生の声だが、人と会話しているときの話し方ではなく、授業をしているようにも聞こえる。
 厨房には煌々と電気がついていた。岡村先生は生徒に語りかけるように説明をしながら、手袋をした手でボウルの中のなにかを混ぜている。
 彼はこちらに目をやり、そして手を伸ばして、カメラを止めた。小さな三脚にのせた一眼レフが、彼の前にあることにはじめて気づいた。動画を撮っていたのだとようやく理解する。
「おはようございます」
 先に挨拶されて、ぼくもあわてて口を開いた。
「おはようございます。昨日、和室に忘れ物をしてしまって。取りにきたら、声が聞こえたので、きてしまいました。お邪魔してしまってすみません」
 岡村は手袋を外した。
「いえいえ、もうこのシークエンスは撮ってしまったので、ちょうどキリのいいところでした」
「動画、撮ってるんですか?」
「そうです。料理系の配信やってるんです。あ、もちろん校長には厨房を使う許可取ってます」
 意外な一面を見た気がした。
 彼はにやりと笑った。
「まあ、趣味と実益を兼ねています。講師としての収入はあんまり夢のない感じなので、動画だと字幕さえつければ世界中から観てもらえる」
 自然に口が開いていた。
「立ち入ったことをうかがっていいですか? もちろん答えなくてもいいですし」
「なんでしょう?」
「どうして、このお仕事をされているんですか? 料理が好きだったり、得意だったりしたら、調理師とか......」
 岡村は声を上げて笑った。
「二十代の頃、調理師だったんですけどね。実は、やらかしてしまいましてね」
「やらかす?」
「入った老舗の日本料理屋が、やたらに厳しいところで、板長の暴言や暴力なんて当たり前だったんですよ。休めなかったし、毎晩日付が変わるまで働かされて、ちょっとどこかネジが外れたようになってしまったんでしょう。ふっと、記憶がなくなって、気づいたら、板長が血まみれでぼくの前に倒れてました」
 思わず息を呑んだ。
「一升瓶で、頭をぶん殴ったらしいんですよ。あんまり覚えていないんですけど。板長は頭蓋骨骨折の大怪我でしたが、命は取り留めたので、本当に良かったです。だからもう、ぼくは自分をすり減らすような場所では絶対働けないんです」
 驚いているぼくの顔を見て、彼はやんちゃな子供みたいな顔で笑った。
「ドン引きでしょう?」
「いえ、そんなことは......」
 ないとは言えない。温和な人だとずっと思っていた。
 いや、温和な人であっても、厳しい環境に置かれると壊れてしまうということなのだろう。
「服役した後、元受刑者の生活支援のボランティアをしていた花村さんに出会いました。なぜか気に入られて、この学校をはじめるときに誘ってもらったんです」
「花村校長が......?」
 彼女がそんなことをしているとははじめて知った。たまに、彼女が朝から夜までいないときがあるが、そういうボランティアに出かけているのだろうか。
 岡村はきゅうりの和え物を皿にきれいに盛りつけはじめた。
「ここの生徒さんは、生活を立て直したいと思っている人が多いけれど、ここにこられるのはある程度、やる気と余裕があって、自分になにが足りないかわかってる人がほとんどです。世の中にはもっと困難な状況にある人がたくさんいて、花村さんはそういう人のためにも、なにかしたいと思ってるんでしょうね。ぼくも、料理はできたけど、そういう人間のひとりでした。自分のために料理をするようになったのも、講師の仕事を引き受けてからです。もちろん、それから栄養学についてなども、いろいろ勉強しましたけど」
 彼は盛りつけ終わると、カメラを手に取った。どうやら動画の続きを撮るらしい。
「じゃあ、ぼくは失礼します。お話、聞かせてくださってありがとうございます」
 ぼくはそう言って頭を下げた。
「あとで、またお目にかかりましょう」
 岡村はそう言って、カメラの液晶画面を見ながら構図を確認する。
 ぼくは静かにその場を辞した。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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