山の上の家事学校第13回
昨日、後片付けを担当したから、今日は免除された。猿渡と何人かが食器を洗い場に運んでいく。
ぼくは一度、自室に帰ってから、コンビニに買い物に行くことにする。三月の夜風は、まだ少し寒いが、夜の散歩を躊躇するほどではない。たぶん、温かいものをお腹いっぱい食べたことも関係しているのだろう。寒さは身体の表面を撫でていくだけで、芯から凍えるような気持ちにはならない。
きてよかったのかもしれない。あらためてそう思う。
少なくとも、家事のスキルと知識は身につくだろうし、罪悪感を刺激してこないところも安心できた。同世代の男性が、手際よく料理を作るところを見て、自分の意識が変わるのも感じた。
コンビニに到着し、スーパードライを二本カゴに入れる。白木の分と、自分の分だ。その後、明日の朝のための豆乳と菓子パン。昼夜しっかり食べるから、朝はこのくらいでちょうどいい。
夜飲むための麦茶を買って、買い物は終わりだ。
買ったものを詰めてもらったレジ袋を手に、学校の方に向かって歩き出す。
引っ越して間もないから、新居のまわりにもあまり慣れてはいない。それでも家にいればやらなければならないことは、常に身の回りでぼくを急かしている。
英語の勉強、出さなければならない手紙、片付けなければならない引き出し、読みたかった本。それらから、解放されていることも、気分が軽い理由のひとつかもしれない。
ふいに思った。
カリキュラム案内にあった、子供のヘアアレンジの授業を受けてみてもいいかもしれない。今度会ったとき、理央の髪を結んでやることもできる。
自室に帰る前に、学校に戻る。ビールを厨房の冷蔵庫に入れておくつもりだった。
引き戸を開けて、中に入ると、怒りを含んだ声が聞こえてきた。
「抗議します。俺は、授業料を払って、家事のスキルを教えてもらいにきたけど、それは使用人として働かされにきたわけではない」
猿渡の声だった。ぼくは玄関で身体を強ばらせた。
「もちろん、そうですよ。あなたは授業料を払って、ここに家事を教わりにきた。わたしたちは家事のスキルを教えたり、実習する機会を提供しているだけです」
穏やかな声は花村校長だ。
「じゃあ、なぜ、ゴミの始末まで俺たちがやるんですか。こちらがお金を払っている以上、そういうのは従業員がやるべきじゃないんですか! 教えているという名目で、労働力を搾取している」
猿渡はなおも声を荒らげる。
理屈っぽい。理論武装しているのはわかるが、すべてが上っ面だけのような気がしてしまう。
花村校長が優しい声で言った。
「うちで雇っているのは講師だけです。あとは、生徒さんたちでやってもらうことにしているの。まったく関係ない労働をさせているわけではなく、生活に必要な労働ですからね」
「集金しつつ、体のいい使用人も兼ねてるってわけですね」
なぜ、そんなにけんか腰なのだろう。嫌ならこなければよかったのに。
「じゃあ、ひとつ質問します。どうして、猿渡さんは自分がゴミの始末をやらなくていいと思っているの?」
花村校長の声が響いた。
「あなたはここで料理を作って食事をした。生活していたらゴミはどうしても出る。昨日は誰か他の人がゴミを始末した。今日はあなたに回ってきた。明日は別の誰かがやる。それだけのことです」
「それは......」
「あなたがそれを免除されるべき人間だと、自分で考えているのだとしたら、それはいったい誰の仕事なんでしょうか」
ふいにドアが開いた。猿渡が飛び出してきた。ぼくを見て驚いた顔になる。
まずい、ととっさに思った。まるで立ち聞きしていたような状況だ。
猿渡は一瞬ぼくを睨み付け、そのまま玄関から出て行った。
花村校長が部屋から出てくる。
「あら、お風呂?」
「いえ、冷蔵庫にビールを入れておこうと......」
そういえば、学校の広いお風呂に入っていいと言われていたから、後で入りにこようと思っていたのだった。
こういうとき、なにを言うべきなのだろうか。猿渡について、「あいつ、なに言ってるんでしょうね」みたいに言った方が、立派な人間に見えるのかもしれない。
だが、ぼくには猿渡の気持ちがわかる。わかってしまうのだ。
家族で暮らしていたとき、たまに言われて食器洗いはやった。だが、そのときぼくは、一度も排水口のゴミに手をつけなかった。排水口のカバーを洗ったこともない。
いつも、ぼくが洗い物を終えた後、鈴菜がそれをやっていた。
どこかで思っていたのだ。そこまでは、ぼくがやる仕事ではない、と。
鈴菜はそれについて、なにも言わなかった。そのことに愕然とする。ぼくは鈴菜が、言いたいことは呑み込まずに言う人間だと思っていた。
ぼくが、排水口に触れないことに、なにも思わなかったはずはない。それでも彼女はそれを呑み込んだ。
なぜ、ぼくはそれをやらなくていいと思い込んでいたのだろう。
「お恥ずかしい話なんですが......」
口を開いたぼくを、校長は優しい顔で見た。
「今、校長が猿渡くんに言ったことば、ちょっと刺さりました。ぼくも、家族と暮らしていたとき、食器を洗っても、排水口のゴミは集めませんでした。妻がやることだと思ってました」
校長はそれを聞いて微笑んだ。
「わたしも子供の頃は大嫌いでしたよ。お母さんがやればいいのにってずっと思ってました。泣いて母と喧嘩したこともあります」
「子供の頃の話でしょう」
「そう、つまり否応なしに子供でいられなくなる人と、いつまでも子供でいられる人がいるってことなんでしょうね」
もしかすると、鈴菜と結婚生活を続けていたら、ぼくはいまだに子供のままだったのかもしれない。消え入りたい気持ちになる。
「猿渡くんは、まだ十代ですから、子供の気持ちでいるのはどこか仕方ないところもあります。そう言ってあげたかったのですが、出て行ってしまいましたね。続けられないかもしれませんね」
少しだけ、校長のことを冷たいと思った。追い掛けてそう言ってあげればいいのに。
だが、子供扱いされたら、猿渡はもっとへそを曲げるかもしれない。
校長はぼくの方をちらりと見た。なぜか気持ちを見透かされたような気がした。
「たぶん、うちに通いたいと思う人は、その時点でいろんなことを克服しているから、入ってから揉める人はそんなに多くはないですが、たまにいます。特に、人に言われて、渋々きた人はね」
「ぼくも、妹から薦められてきました」
「それでも、最後に決めたのは仲上さんでしょう」
それはたしかにそうだ。もし、自分で変わりたいと思えなかったら、和歌子のアドバイスだって、聞き流していたかもしれない。
「続けられなかったとしても、ここで何日間か過ごしたことが、猿渡くんにとってプラスになればいいのですが......」
校長は独り言のようにそうつぶやいた。
もし、猿渡が止めたいと言ったら、校長は引き留めないだろう。そう思えるような口調だった。
結局のところ、変われるのは、自分から変わりたいと思った人間だけなのだ。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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