山の上の家事学校第1回
ドアを開けた瞬間、少しかび臭いような匂いがした。
少しだけ、少しだけだ。自分にそう言い聞かせる。家に入って、数分すればもうわからなくなる。
生ゴミは月曜日に出した。今日は木曜日。二月の気温で匂うほど長くは放置していないはずだ。そう思ってから気づいた。木曜日は週に一度のプラゴミの日で、ぼくは先週もプラゴミを出すのを忘れてしまった。
つまり、二週間分のプラゴミが放置されて、ゴミ袋はふたつ分に達している。来週まで出せないということは、ここからもうひとつ、ゴミ袋が増えてしまうということだ。
食事はほとんどコンビニかテイクアウトだから、プラゴミばかりが積み上がっていく。洗ってはいるが、捨てるものだと思うとどうしても洗い方はいい加減になる。
つまり二週間分のプラゴミが、匂いはじめているのだろう。
明かりをつける。敷きっぱなしの布団と、出しっ放しのペットボトルのお茶。窓を開けたのもいつだったか記憶にない。ましてや布団を干したのはいつだっただろう。たぶん、三ヶ月以上前だ。
仕方ないじゃないか、と、自分に言い訳をする。朝は起きてすぐ出かけていく。新聞記者という仕事柄、休日出勤も多い。布団を干す暇などない。
一人暮らしを再開してから、ほぼ一年。季節を一周してしまった。
結婚していたとき、布団をいつ干していたのか、覚えていない。妻の鈴菜(すずな)が家にいたときは、昼間干していたのだろうと検討がつくが、一年ほどの短い期間とは言え、共働きの期間だってあったのだ。しかも、彼女は同業者だった。
取材先でよく顔を合わせるから会話を交わすようになり、三年ほど交際してから、結婚。翌年に子供が産まれて六年。
十年なんてあっという間だ。ぼくも、もう四十三歳になった。
鈴菜が不満を溜め込んでいることには、気づいていた。コロナ禍もあり、保育園は何度も休園になった。大変だと言っていたけれど、ぼくはその話を聞き流してしまっていた。
ライターの仕事をはじめて、映画評などをやっていることは知っていたが、家でやる仕事だ。大変だと言っても、なんとかなるだろう。そう考えてしまっていた。
娘の理央(りお)は可愛かったし、大事に思っている。でも、鈴菜にまかせていれば大丈夫だと思っていたのだ。鈴菜は賢い女性だ。彼女のそういうところが好きだった。
だが、ぼくは忘れてしまっていたのだ。鈴菜は賢くて、フェアで、そして行動力があるのだ。
ある日、仕事から帰ってくると、家は真っ暗だった。明かりをつけて驚いた。
鈴菜と理央の荷物が全部なかった。テーブルの上にはなぜか、ファイルが置かれていた。それを手にとって、ひっくり返った。
一枚目は、鈴菜の名前が書かれて、捺印された離婚届。あとは一年前からの、ぼくの行動のレポートだった。
〇月〇日、早く帰るように頼んだのに、帰ってこなかった。〇月〇日は理央の面倒をみてもらう約束だったのに、朝から出かけて、夜まで帰らなかった。酔って帰ってきて、理央のための乳酸菌飲料を三本も一気飲みしたことまで書いてある。
ひとつひとつは、些細なことだ。こんなことで離婚を要求されることなどないと思う。だが、みっちり書かれた記録は、彼女が一年以上前から、着々と準備をしていたことを証明していた。
その期間、ぼくへの怒りを滾(たぎ)らせていたことも。
ぼくは白旗を揚げるしかなかった。
慰謝料は要求されなかったが、貯金は半分彼女に渡すことになった。仕方ない。結婚する前、ぼくはほとんど貯金をしていなかったし、鈴菜がきちんと家計を管理していてくれたからこそ、作れた貯金だった。
あとは、理央が成人するまで養育費を払わなければならない。その見返りは、月に一度、一、二時間ほど理央に会えるというだけ。
理央と離ればなれになりたくない気持ちはあった。だが、どう考えても、ぼくが働きながら、ようやく今年から小学校に入学する娘の面倒をみるのは無理だ。
念のため、父の死後、一人暮らしをしている母に、近くに住んで理央の面倒をみてもらうことができるかと尋ねたが、けんもほろろの答えだった。
「そりゃあ、鈴菜さんが病気とかなら考えるけど、彼女は元気で、理央ちゃんを引き取るつもりなんでしょう」
「実家のある大阪に帰って、両親の力を借りて、働きながら育てるって......」
「じゃあ、それでいいじゃない。今さら、母親のように子育てするなんてわたしには無理。理央ちゃんは可愛いけど、たまに会えればそれで充分。孫は亮太(りょうた)も茜(あかね)もいるしね」
亮太と茜は、妹の子供たちだ。
「母さんの力を借りるのは、最低限にするから」
「で、理央ちゃんが小学校から帰って、あんたが仕事から帰ってくるまでどうするの。毎日のごはんは? 学校行事は?」
母に問い詰められて、ぼくは押し黙ってしまった。
理央の育児に積極的に関わってきたならまだしも、ぼくはほとんど鈴菜にまかせっぱなしだった。理央と、いきなりふたりで生活するとなったとき、なにをすればいいのか、なにが必要なのかすらわからない。
オーケー、オーケー、大人しく、ウジが湧く男やもめになるしかないというわけだ。
買ってきた弁当をローテーブルの上に置いて、万年床に横になった瞬間、携帯電話が鳴った。画面を見ると、鈴菜からだった。
彼女にはこういうところがある。ちょうどゆっくり話せる状況のときに、電話をかけてくるのだ。
「はい......」
「こんばんは。元気? こっちは問題ない」
元気? と尋ねた後、ぼくの返事を待つ様子もない。それでも、「元気?」と聞いてもらえることは、ありがたいと思わなければならないのだろう。
「三月の面会の日取り、もし幸彦(ゆきひこ)が決めたら早く教えて。わたし、三月も四月もたぶん東京に行かないから」
理央との面会のチャンスは、鈴菜が東京にくる予定がある日に合わせるか、ぼくが大阪に行くか、どちらかしかない。去年は行動制限もあったから、数えるほどしか会えなかった。今はそこまで厳しくないから、絶対に会いたい。
思い切って言ってみた。
「あのさ......俺、今、勤続二十年の長期休暇も取れるんだよ。もしよかったら、理央と一緒に旅行とか......もちろん、きみもよければ......も、もちろんそういう意味じゃなくて、理央と長く一緒にいたいんだ。二泊三日くらいでも......」
「ごめんなさい。わたしは無理」
ぴしゃりと扉を閉めるような返事。
「じゃあ、理央だけでも......」
「彼女がもう少し大きくなったら考えてもいい。もちろん彼女に聞いてからね。でも、今は無理。幸彦に、理央をまかせられない。あの部屋、なによ」
去年、一度、込み入った話をする必要があって、ぼくは鈴菜と理央をこの部屋に招いた。ぼくとしては片付けたつもりだった。
「あのときよりは片付いてるよ」
ぼくはあのときよりひどくなった部屋を眺めながら、大嘘をつく。
一歩入っただけで、鈴菜は顔色を変え、廊下に出て、携帯電話で駅前のカラオケボックスを予約した。話し合いはそこで行われた。
理央にはアトピーがある。こんなかび臭い部屋には入れられないというのが、その理由だった。
たしかに、隅々まで掃除したわけではなかった。自覚するのも恥ずかしいが、少しだけ下心があったのだ。ぼくを可哀想だと思ってほしい。きみたちが出て行ったせいで、こんな狭い部屋で、惨めな暮らしをしているんだと知ってほしい。
たぶん、そんな気持ちも、鈴菜には伝わってしまっていたのだろう。十年も一緒に過ごしたのだ。
「でも、旅館とかホテルなら、清潔だから......」
「理由はそれだけじゃない。父親と会うのは、理央の権利だから、彼女が嫌だと言わない限りは会わせる。でも、あなたに理央の命が守れるとは思っていない」
そんな大げさな、と、言いかけたことばを呑み込んだ。
結婚している間、ぼくは鈴菜が怒るたび、同じことばを繰り返していた。そんな、大げさな。大げさなんだよ、鈴菜は。
あるときから、鈴菜はぼくになにも言わなくなった。その代わりに、ぼくの行動をすべて記録に残しはじめたのだと、今になってわかる。
「あと、四年くらいして、理央がもっとお姉ちゃんになって、彼女が行きたいって言ったら、そのときにね」
だが、四年後、めったに会わない父親と、旅行に行きたいと思ってくれるだろうか。
幸い、今はまだ理央はぼくに懐いてくれている。会うと、「パパ!」と抱きついてくれるし、手もつないでくれる。いつまでそれが続くのだろう。
「じゃあね。日程決めたら、メッセージでも送って」
「あ、あのさ!」
電話が切られそうになったから、あわてて言った。
「なに?」
「俺......、もしかしたら、大阪支社に移動になるかも......、も、もちろん、よりを戻したいとか、そういうつもりじゃなくて......一応、報告しておく......」
異動願いを出したのは、ぼく自身だが、それを言うことはできない。
「政治の中枢は霞ヶ関でしょ」
たぶん、それはぼくが何度も口にした言葉だ。彼女がそれを返すのは、皮肉なのだろう。
「うん......、だから政治部からも離れると思う」
そう言うと、少し驚いたような気配がした。
異動するなら、文化面などの担当になるだろうという話は、すでに聞いていた。それでかまわない。もうその方がいいとさえ思う。
ずっと、自分の仕事を誇らしいと思っていた。誰にも代わりはいないと信じ込んでいた。だから、家族のことは後回しにして働いてきたのだ。
だが、そのせいで、ぼくはいちばん大事な家族を傷つけて、失ってしまった。
それだけではない。去年、新型コロナに感染した長い自宅療養期間中も、職場はぼくがいないことで、めちゃめちゃになったりはしなかった。
感染したのは、たぶん、懇意にしていた政治家との食事会でだった。そこで、感染者が何人も出たのが外聞が悪かったのか、その政治家の担当を外されてしまい、そのことにも深い失望を感じた。
最前線で戦っているつもりが、ただの取り替え可能な駒だったと思い知らされた。
「その......だから頻繁に理央に会わせろとか、そういうつもりはないよ。でも、なにか困ったことがあったら頼ってほしい。ぼくもちゃんと頼ってもらえるように努力するから」
「そうね。たしかになにかあったらお願いするかもね」
鈴菜はそう言った。単なるリップサービスかもしれないが、それが泣きたいほどうれしかった。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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