山の上の家事学校第42回

 その日の夜になって、ようやく花村校長に会えた。
 少し疲れたような顔をしているのは、強制退学に至ったトラブルのせいだろうか。それでも彼女はぼくに笑いかけてくれた。
「インターネットで、記事を読みましたよ。とてもいいエッセイでしたね」
「はあ......」
 煮え切らない反応をしてしまう。続きを書かなければならないのだが、あまり気が進まない。
 花村校長は眼鏡をずらして、ぼくの顔を見た。
「どうかしたんですか? 記事についてなにか言われたとか?」
「いや、その......別れた妻に、ちょっと叱られてしまいました。なにもわかってないって」
 花村校長は少し黙った。
「仲上さん、今、お時間ありますか? 少しお話ししましょうか」
「あ、はい......」
 昼に後片付けをしたから、夜は免除されている。あとは風呂に入って寝るだけだ。
 ぼくは花村校長とふたりで、校長室に向かった。
「別れた奥さん......というのも、ちょっと言いにくいわね。お名前をうかがっていいかしら。仮名でもいいから」
 プライバシーを慮ってのことだろうが、仮名を使う意味もない。ぼくは笑って、答えた。
「鈴菜です」
「鈴菜さんは、本当にあなたを叱ったんですか?」
 うっ、と、ことばに詰まった。叱られたと解釈してしまったのはぼくだが、鈴菜はただ、自分の感情を吐露しただけだ。しかも、ぼくから連絡して、わざわざ感想を聞いている。
「たしかに......そう言われたら、別に叱られたわけではないかも......」
 花村校長はにっこり笑った。
「そうでしょう。そうでしょう」
 ぼくはよく、鈴菜や和歌子から責められているように感じるとき、「叱られた」などという言い方をしてしまう。本当に叱責されたときならまだしも、遠回しに責められているように感じるときにも。
 それは自分の被害者意識なのだろうか。
 もしかすると、理央がもっと大きくなったら、「娘に叱られた」などと言うようになるのかもしれない。容易に想像がつく。
「それで、鈴菜さんはなんとおっしゃったの?」
「ええと......家事と育児をひとりでやっているときは、楽しいと思う余裕なんてなくて、そして今は、両親に娘を預けて、仕事に行って、そのことに罪悪感を抱いているって。繕い物をして、それを楽しいと思う余裕なんてないって」
 花村校長は黙って、ぼくの話を聞いていた。
「生活を楽しむことは、車や旅行よりも多くの人に開かれた楽しみだと、ぼくは記事に書きました。でも、彼女は生活を楽しいなんて思えないと言いました」
 これまで、大して家事をやってこなかった。だから、なにもわかっていないと言われれば、黙るしかない。
「わたしは、仲上さんは間違っていないと思いますよ。料理を作ることや、身の回りを整えることにも小さな喜びはありますし、義務ではなくそれを発見するのは大切なことです」
「でも......」
 そう言いかけたぼくを、花村校長は遮った。
「それでも、常に家事に押し潰されてきた人にとっては、腹立たしく感じるのも事実かもしれないですね。でも、喜びを感じることが悪いわけではありません」
 過重労働で苦しんできた人間と、働きはじめた新入社員の違いかもしれない。
 ぼくは話を続けた。
「鈴菜は言いました。今は、両親に理央......娘を見てもらって、仕事をしている。そのことにも傷ついているって。だから、ぼくは言ってしまいました。なら、戻ってきたらいいじゃないかって。それが彼女を怒らせたみたいで......」
「そうね......」
 花村校長は困ったような顔になった。先ほどのように、ぼくは悪くないと言ってほしかったが、彼女はそうは言わなかった。
 沈黙が怖くて、ぼくは話し続けた。
「もちろん、彼女が働きたいと思っているのは知ってます。だけど、この社会はフルタイムで働きながら、まだ小さい子供の面倒を見続けられるようにはなっていないじゃないですか。社会を変えることができればいいけど、それは簡単じゃない。だったら、もう少し......もう少し理央が大きくなるまでは、理央と一緒にいた方が、彼女自身も消耗しなくて済むし、幸せなんじゃないかと思ったんです。なにもかも、ひとりで抱え込んだって、人間ひとりのキャパシティなんか限られている。ぼくだって、ちゃんと変わったつもりです」
「仲上さん」
 花村校長の声からは、これまでの歌うような優しい響きは消えていた。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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