山の上の家事学校第17回

 レンタカーに乗り換えると、少し気持ちが楽になった。スマートフォンで、夜遅くまで営業しているスーパーを探し、そちらに向かう。
 ぼくも去年、新型コロナに感染したから、なにが必要かはだいたいわかる。同僚が届けてくれたゼリー飲料やスポーツドリンク、アイスクリームなどに助けられた。後は、レトルトのお粥や、インスタントのうどんなど。フルーツの缶詰などもあるといいだろう。
 スーパーで買い物を済ませ、ドラッグストアにも立ち寄る。念のため、ドラッグストアの駐車場から鈴菜に電話を掛けた。
「レンタカー借りたから、これから行くよ。たぶん十時前には着くと思う」
 鈴菜が驚いた気配がした。
「明日になるかと思った」
「早いほうがいいだろ。今ドラッグストアにいるけど、なにかいるものある? のど飴やスポーツドリンクやゼリー飲料は買ったけど」
「アイスクリームが欲しい......」
「OK。溶けるかもしれないから、鈴菜の家の近くで買うよ。解熱剤はある?」
「あるけど......足りなくなるかもしれないから、お願いしてもいい?」
「もちろん」
 ぼくはドラッグストアで、解熱鎮痛薬と栄養ドリンクを買った。
 いろいろ入ったレジ袋を後部座席に置いて、ぼくはレンタカーを発車させた。
 心配事はたくさんあるし、ぼくひとりで理央の面倒がみられるのか不安もある。だが、それでも心が少し晴れやかなのは、今、自分は最善を尽くしていると信じられるからだ。

 鈴菜の住むマンションにきたのは、はじめてだ。
 レジ袋三つに詰まった荷物を持って、オートロックを開けてもらい、エントランスに入る。彼女の住む三階にエレベーターで上がった。部屋のドアの前にはボストンバッグが置いてある。たぶん、理央の荷物だ。
 インターフォンを鳴らすと、ドアが開いて、マスクをした理央が眠そうな顔で出てきた。ぼくは中に向かって声を掛けた。
「一応、いろいろ買ってきたから、玄関に置いておく。他のものは大丈夫だけど、アイスクリームはすぐに冷凍庫に入れて」
 苦しそうな声が返ってくる。
「ありがとう。理央をよろしくね」
「体調悪くなったら、メールして」
 そう言ってから、ぼくはドアを閉めた。ボストンバッグを持ち、理央の手を引く。
「ママが治るまで、パパのところに行こう」
 理央は不安そうに目を伏せた。
「ママ、すごくしんどそうだった......大丈夫かな」
 しばらく会わないうちに、関西弁のイントネーションになってる。そのことに、ぼくは少したじろいだ。彼女はぼくの知っている理央から変わりつつある。
 動揺を隠して理央を心配させないように笑顔で言う。
「大丈夫だよ。パパがまた見に来るから」
 車に戻り、理央のシートベルトを締めたあたりで、携帯電話が鳴った。見れば、鈴菜からのメッセージだった。
「買い物、ありがとう。とても助かった」


 レンタカーは家の近くのコインパーキングに停めた。
 理央の手を引いて、まだよそよそしい顔をしている自宅に戻る。
「晩ご飯はなに食べた?」
 そう尋ねると、理央は元気よく答えた。
「えっとねえ。コンビニのハンバーグと、レンジでチンするごはんとコンビニのポテサラ!」
 たぶん、体調が悪い中で、鈴菜が理央の好きなものを用意したのだろう。コンビニの惣菜なら、デリバリーしてもらうこともできる。
「パパは?」
「パパはまだ、これからだ。ミックスフライとごはん」
 帰ってユニットバスにお湯を溜め、理央を風呂に入らせる。
 その間に布団を敷き、折り詰めの中の夕食を食べた。冷めてはいても、ミックスフライもごはんもおいしかった。
 布団は一組しかないから、ぼくは今日はコートを着たまま眠るつもりだった。引っ越しを機に布団は買い換えている。使い古しのじっとり湿った布団に理央を寝かせなくていいことに、ほっとする。
 濡れた髪で出てきた理央に尋ねる。
「髪、ひとりで乾かせるか?」
「できなーい。いつもママがやってくれる」
 ぼくは理央を前に座らせて、ドライヤーを手にした。一緒に暮らしていたときも、いつも帰りが遅かったから、彼女の髪を乾かしたことなど、数えるほどだ。
 熱過ぎないように、気をつけて彼女の髪を乾かす。手ぐしで彼女の髪を梳いたとき、その柔らかさと滑らかさに、ぼくは驚いた。
 自分自身の髪とは全然違う。まだ生まれて六年しか経っていない子供の髪は、たとえようもなく心地よく、美しかった。
 なぜか、泣きたいような気持ちになった。ぼくはこれまで、本当に大事なものを見失ってきたのかもしれない。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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