山の上の家事学校第3回
子供たちにはピザの方が人気だった。もちろん、ピザ代はぼくが払った。
だが、思いもかけず、母の言う「あんたとふたりで旅行に行っても、全然気が休まらないし」ということばの意味を、ぼくは理解した。
和歌子は、昼食を母の分も一緒に買ってきた。子供たちの分も含めて食事を用意するのは簡単ではない。それに対して、ぼくは、実家に行けばなにか食べ物が出てくる、くらいの感覚でいたのだ。
今回だけが特別なわけではないだろう。食卓には、母の作ったサラダなども並んでいて、子供たちは喜んで食べているが、必ず作らなければならないのと、気が向いたときだけ作ればいいのとでは、労力がまるで違う。
たぶん、何年か前のぼくなら、同じ光景を見ても、こんなふうには考えなかっただろう。「母さんに作らせればいいのに」と考えていたかもしれない。
思えば、手土産もなしにきてしまった。ためいきが出る。
鈴菜に対しても一事が万事、こうだったのだろう。そう考えると、胸がズキズキ痛んだ。
食事が終わると、和歌子が言った。
「ごめん。お兄ちゃん、ちょっと話があるんだけど、いい?」
それを耳にした仁太朗が言う。
「俺、外した方がいい? 子供連れて公園にでも行こうか」
「大丈夫。わたしたちが二階に行くから」
二階の部屋はほとんど物置になっている。階段が急で危ないから、母も普段は階下でしか生活していない。
和歌子と一緒に二階に行くと、窓が開いていた。たぶん、ぼくがくる前に、仁太朗が二階に上がって、窓を開けたのだろう。
その窓を閉めてから、和歌子が言った。
「お兄ちゃん、リフレッシュ休暇がもらえるって言ってたよね」
「ああ、今の時期、なにしていいのかわからないけどな」
母が旅行に行かないなら、ひとりでどこかに行こうかと思うが、行きたいところなど特にない。
和歌子はタブレットを弄(いじ)りはじめた。表示させた画面をこちらに向ける。
山之上家政学校。そのロゴの下に、こんな文章があった。
「当校は男性が対象の、生活のための家事学校です」
古民家のような大きな家の前に、在学生なのか男性たちが十人ほど並んでいる写真があった。
定年後らしい白髪の男性もいれば、まだ若い男性もいる。真ん中に立っているのは、六十代くらいの髪を紫に染めた女性だ。彼女が校長か、それとも先生か。
「なんだよ、これ」
「行ってみれば? お兄ちゃん、コンビニ弁当ばかりだって言ってたじゃない。リフレッシュ休暇を利用してもいいし、ちょうど大阪だから、移動になってから通ってもいいし」
所在地をタップすると、大阪北部の住所が表示された。最寄り駅までは、市内中心部から三十分くらいだが、そこからバスで三十分。少し遠いが、まあ通えないほどではない。
受講コースを見ると、「あなたのペースで通えます」とある。
入寮コースは、一週間からはじまり、三ヶ月まで。あとは、週末のみのコースや、週一、二時間だけのコースもある。
入寮コースだと、その週の授業はすべて好きなように受けられて、ほかのコースよりもお得になると書いてあった。
もし、鈴菜が許してくれて、理央と三人の生活を取り戻せるのなら、喜んで通うだろう。だが、その可能性は限りなく低い。そう思うと、あまり乗り気になれない。
「俺、ひとりだからさ......こんなところに通う必要ないよ」
そう言うと、和歌子はきっとぼくを睨み付けた。
「ひとりだからよ! お兄ちゃん、離婚してから、ずいぶん痩せたし、顔色も悪くなったよ。独身男性は既婚男性や独身女性と比べても、寿命が短いって聞くよ」
身内は言葉を選ばない。ぼくは返事に困る。
「お兄ちゃんのことを心配して言っているの。わたし、嫌だからね。孤独死したお兄ちゃんの死体を確認しに行くの」
「いや......家事ができるようになっても、孤独死しないとは限らないし......」
だいたい「孤独死」ということばは、なんなのだと思う。結婚してようが、子供がいようが、ひとりで死ぬ人は死ぬし、それが悪いことだとは思わない。
「『まあ仕方なかったね』と思えるくらいは、長生きして欲しいって言っているの」
言葉は強いが、和歌子がぼくのことを心配して言ってくれていることはわかる。どうでもいいと思っていれば、放っておけばいいのだ。
ぼくはその家事学校の名前を携帯電話にメモした。
「わかった。ちょっと考えてみるよ」
和歌子はタブレットをしまってから言った。
「十年経っても、まだ理央ちゃんは高校生だし、二十年経ったら、溌剌とした若い女性だよ。そのときに、くたびれて、身体を壊した頼りないおじさんでいるか、人生を楽しんでいる自慢の若々しい父親でいられるか、今からが勝負だと思っている」
はっとした。今はまだ、理央はなにもわからないからいい。だが、十年後の理央が、今のぼくの部屋を見たり、溜まったプラゴミを目にしたら、軽蔑するのではないだろうか。彼女が会いたくないと言えば、ぼくと理央の縁など簡単に切れてしまう。
それだけは嫌だ。理央に失望されない父親でいたい。
だから言った。
「アドバイスありがとう。前向きに考えてみるよ」
独身男性の寿命だけがあきらかに短い。その新聞記事を読んだのは、まだぼくが離婚する前の話だった。だから、そのときはあまり深くは考えなかったのだ。
かわいそうにと思い、自分はその枠に当てはまらなくてよかったと考えた。まさか数年後、自分に突き刺さってくるとは思わなかった。
所得はあきらかに女性の方が低いのに、独身女性と既婚女性の間には大きな差はなく、むしろ独身女性の方が長生きする傾向があった。
独身男性の中でも、ずっと独身である人はまだ少しマシで、死別が最悪だ。
理由は自分を振り返れば、だいたいわかる。離婚後、ぼくは酒量が増え、食生活が荒れた。孤独は身体に悪い。そう実感する。
だが、なぜ、独身女性はそうはならないのだろう。
特に長生きしたいわけではない。だが、和歌子のことばは身に染みた。
たぶん、十年や二十年でぽっくり死ねるわけではない。だから、そのとき、理央に嫌われるような父親でありたくはないのだ。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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