山の上の家事学校第26回
翌朝、白木の姿は家事学校にはなかった。
岡村先生に聞くと、急用があって帰ったと言っていた。やめたわけではないから、学校にはまた戻ってくるだろう、と。
彼がやり直せるかどうかはわからない。そうであってほしいと思うだけだ。
土曜日の夜、夕食を終えてから、ぼくは花村校長の部屋をノックした。
「はい、どうぞ」
年上の女性特有の、高めの歌うような声。声だけではなく、話し方も世代によって違いが出る。どこか懐かしい気がするから、花村校長の声は嫌いではない。
「仲上です。お邪魔します」
「あら、どうしました?」
校長は眼鏡をずらして、こちらを見た。
「実は少しご相談がありまして......」
「なにかしら」
ぼくは呼吸を整えて、話し始めた。
「前にもお話ししましたが、ぼくは新聞社で働いています。今は家庭面の担当をしています。もし、可能なら、山之上家事学校を取材して、記事にさせていただきたいと思いまして......」
校長はすぐに返事をしなかった。ただ、じっとぼくの顔を見つめる。
なんとなく心の奥を見透かされるような気がして、言い訳をしたくなった。
「もともと取材をしようと思って、ここにきたわけでは、もちろんありません。ぼくがこの先、生きていくのに必要だから、家事をきちんとできるようになりたかった。そして、短い間ですが、きてよかったと思っています」
家事のスキルだけではない。生きていくことを見直しているような感覚がある。
「だから、ここを紹介したいんです。たぶん、必要としている人は、他にもいると思うんです」
「そうね......紹介していただけることはありがたいです。ここの経営も簡単ではないですしね」
それは感じてた。市内中心部から離れているとはいえ、設備を維持していくだけでも大変だろう。
「でも、書くなら、仲上さん、あなたがここにきてなにを覚えたのか、どう感じたのかを主に書いてください。もちろん、その生徒さんがかまわないというのなら、他の生徒さんに話を聞いてもかまいません。そこは大人同士ですから、学校が止めることはできません。でも、できれば、他の人の話ではなく、あなたの話を書いてほしいの」
そう言われて戸惑った。頭にあったのは、学校のカリキュラムの紹介と、ここにきている生徒たちへのインタビューだ。自分のことを書くなら、エッセイのような形になってしまう。
だが、ぼくの内面に変化があったからこそ、山之上家事学校のことを書きたいと思ったのは事実だ。
「あと、もうひとつ。これは、仲上さんへのお願い」
「なんでしょう」
「ゴールデンウィーク、はじめての生徒さんも何人かいらっしゃるし、いつもより少し人が多いこともあって、ちょっとひとつ、変わった実習を企画しているの」
「はい」
花村校長は、少しコケティッシュな顔で笑った。
「そこで、仲上さんには、ある役割をお願いしたいと思っているの。サクラ......というのは、ちょっとイメージが悪いわね。盛り上げ役、とでも言いましょうか」
それを聞いて、少し慌てる。
「ぼく、そういうのはあまり得意じゃなくて......」
飲み会などでも、あまり中心にいる方ではない。政治部にいたときの飲み会では、無理して喋ったり、盛り上げる努力をしたこともあるが、あまり上手くはできなかった。
「大丈夫よ。仲上さんにぴったりの役割だから」
日曜の夜、三日間の授業を終えて、洗濯物と、必要なものだけ持って、自宅に帰った。
このあいだは、鈴菜からの連絡でドタバタと家事学校を出たから、それどころではなかったが、今は、ひどく不思議な感覚がある。
遠い、隔離された世界から現実に戻ってきたような、夢から覚めたような、そんな気持ちだ。
休暇で海外旅行などに行ったとき、こんな気持ちになったような記憶がある。遠い昔だ。まだ理央が生まれる前、それどころか結婚する前だったかもしれない。
出張で数日地方に行くだけでは、こんな気持ちにならない。
飛行機が着陸するとき、気圧の差で耳が詰まることがある。そんなふうに、ぼくの身体は、日常に戻ってきた違和感を訴えている。もちろん、山之上家事学校は、山とはいえそんな高い場所にあるわけではないし、気圧が違うとは思えない。
なにがぼくを戸惑わせているのだろう。ぼくにはまだその正体はぼんやりとしか見えない。
体験記として書きたい。
幅木にそう言うと、簡単にOKが出た。
「でも、それだと紙面に載せるよりも、ウェブ掲載がいいと思うんだけど」
やはり新聞に載るのと、ウェブだけの掲載に留まるのとでは、人の目に触れる機会が全然違う。ウェブは話題にならなければ、閲覧数も少ない。
だが、自分のことを書くとなると、少し気後れしてしまうのも確かだ。ウェブの方が、飾らない気持ちを書けるかもしれない。
体験記として書くのなら、離婚したことや、自分があまり家事をやってこなかったことにも、触れないわけにはいかないだろう。
見栄を張りながら書いたものが、人の心を揺さぶるとは思えない。
Synopsisあらすじ
ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。
Profile著者紹介
1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。
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