山の上の家事学校第35回

 ドアの鍵を開け、寮の自室に入る。
 ごろんと畳に横になる。もうこのまま寝てしまいたいが、汗をかいたので風呂に入らなくてはならない。
 狭いユニットバスでシャワーだけ浴びるより、広い湯船に浸かりたい。学校の風呂はまだ使える時間だ。
 えいやっと起き上がり、支度をして学校に向かう。校長室の電灯も消えているから、もう休んでいるのだろう。
 岡村先生は、この近くに住んでいると言っていたが、校長はいつも学校にいる。部屋の数は多いから、どこかに自室があるのかもしれないが、女性だから気軽には聞きにくい。
 学校は夜十二時に施錠すると聞いているので、帰るとしてもその後だろう。
 十一時を過ぎてしまったから、もう風呂に人はいないと思っていたが、脱衣カゴに脱いだ服がある。誰かが浴室内にいるようだ。
 ぼくも、服を脱いで、浴室に向かう。
 引き戸を開けると、湯船に誰かが浸かっていた。
「あれ、仲上さん」
 声を聞いてわかった。堀尾だ。
「今日、お休みだったんじゃないですか?」
「さっき帰ってきました。妹一家が、旅行にきていて、うちに泊まるんです。さすがにそんなに広い家じゃないんで、鍵だけ渡して寮に帰ってきてしまいました」
 先に、髪と身体を洗うために、洗い場に座る。
 堀尾は、湯船の縁に座って、火照った身体を冷ましているようだ。
「ああー、サウナでもあればなあ」
 さすがに学校にそれは高望みだろう。
 ぼくもたまには温泉旅館に泊まりたいと思うこともあるが、独り身だとなかなか難しい。ここ何年かは新型コロナもあるから、なおさらそんなレジャーとは縁遠くなってしまった。
 身体を洗い終えて湯船に浸かると、堀尾もまた湯船に入った。
 ふいに堀尾が口を開いた。
「遠藤って若い子いるでしょ。仲上さん、話しました?」
 華奢で優しげな顔をした青年だ。まだ個人的な会話まではしていない。
「調理のとき、一緒になりましたけど、それだけです」
 そのときは、栗山が一緒で、遠藤は彼と仲がいいようだった。ふたりが会話するのを聞くでもなしに聞いていたが、それほどはっきり覚えていない。
「彼は四月から、土日だけここにきているんですけど、風呂で会ったことないんですよね」
 なにを言い出すのだろう。
「そりゃ、若い人は大勢で風呂に入ることに慣れてない人もいるんじゃないですか?」
 家に風呂がなくて、みんな銭湯に行っていた時代なんて、もう遠い昔だ。ぼくでさえ、そんな時代のことはドラマや映画でしか知らない。
 大勢で入浴するのは、日常ではなく、娯楽だ。抵抗がある人がいてもおかしくはない。
 ぼくが戸惑っていることなどかまわずに、堀尾は話し続ける。
「遠藤くん、結婚することになって、ヨメの方が稼ぎがいいので、家のことをやるためにここにきたって言っているんですけどね」
「はあ......」
「どうもくわしく聞いてみたら、籍は入れないらしいんですよ。事実婚ってやつ」
 そもそも籍を入れるという表現は、今の日本の戸籍法では正しくない。入籍という方がフォーマルに聞こえるらしく多用されているが、普通、結婚では新しい戸籍が作られる。どちらかの戸籍に入るという形ではない。
「結婚届を出さないんですね。最近ではたまに聞きますよ」
 事実婚をしている友人は、研究者で、姓が変わることの不利益が多いと言っていた。もっとも、事実婚は事実婚で、結婚の制度上の優遇を受けられないから大変らしい。
「でも、あえて事実婚を選ぶのなら、なんか理由があるでしょう」
 そうかもしれないが、人の行動にはたいてい理由がついてくるものだ。
 ぼくがあまり話にのってこないので、堀尾は業を煮やしたらしかった。声をひそめる。
「もしかして、今流行のトランス男性ってやつかなと思ったんですけど、LGBTのTってやつ」
 思わず反射的に声が出た。
「やめましょう。そう言うの。よくないですよ」
「そう言うのって......?」
「他人のプライベートな領域を詮索したりすることですよ。それに流行とかそういうのも関係ないです」
「仲上さんは気にならないんですか?」
 気になるかならないかではなく、それを噂することへの嫌悪感の方が大きい。
「本人が言いたくないことなら、知りたくないです」
 堀尾はちょっと気を悪くしたようだった。
「ああ、やっぱり新聞社の人って、コンプラとかポリコレとかに厳しいですもんね」
 ムッとする。確かに研修を受けたことはあるし、この嫌悪感にはそれも関係しているのかもしれない。
 正直なところ、なぜダメかを堀尾に話してわかってもらえるとは思えないし、ぼく自身、そこまでマイノリティの人権にくわしいわけでもない。
 ただ、それが誰かにとって、心の柔らかい部分に触れることだということはわかる。それをおもしろがることで、友情を育みたくないだけだ。
 堀尾は派手な音を立てて、湯から上がった。その派手な音が、気まずさをごまかすためだということは、ぼくにもわかる。
「ちょっとのぼせそうだから、先に上がります。お休みなさい」
「お休みなさい」
 明日からはあまり話しかけられないかもしれない。もっと当たり障りのないことを言っておけばよかったのだろうかと、つい思ってしまう。
 ぼくは、堀尾の背中から、目をそらした。


 彼が去ってしまってから考える。
 もし、堀尾が同じことを言い出したとき、まわりに他の人間が何人かいて、彼らが同調しておもしろがっていたなら、ぼくは同じように「やめましょう」と言えただろうか。
 数は力だ。ぼく自身は、その属性がおもしろがられていても、他人事としてやり過ごすことができる。きっと、ぎこちない笑みを浮かべて、ただ会話に加わらないようにするのが精一杯だっただろう。
 過去にそんな場面をどれほど経験してきたかわからない。自分が善人で正義の側に立っているなんて、少しも思えない。
 時代もあったが、中高生の時はもっと積極的にゲイの話などを「笑える話」として扱ってきた。同級生の中に、もしかしたら当事者もいたかもしれないのに、そんなことを考えたこともなかった。
 子供だったからだと言い訳はできる。
 でも、大人になった今も、立派なふるまいができているわけではない。
 ただ、今回はことばを濁してへらへら笑うようなことはしなくて済んだ。堀尾と気まずくなっても、そのことだけは良かったと思えるのだ。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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