山の上の家事学校第44回

 これまで見えていなかったものが見え始めると、過去の自分がなぜあんなに頑なだったのかわからなくなってしまう。自分が正しいと思い込んで、違う意見を聞こうとしなかった。聞かなくてもいいと思い込んでいた。
 目から鱗が落ちると言うが、ぼくの鱗は接着剤のようなもので固く貼り付けられていて、なかなか落ちなかった。
 今になってこそ、はじめて理解できること、心に響くことがたくさんある。
 だが、どうしても思わずにはいられないのだ。ほんの少し早く、聞くことができていれば、失わずに済んだものがたくさんあると。


 その翌週の土曜日、午後の調理実習でひさしぶりに白木を見かけた。
 ぼくを見ると手を上げて、爽やかな笑顔を見せる。あれからどうなったのかは少し気になるが、こちらから聞くのも図々しいだろう。
 午前中はいなかったようなので、どうやら、白木は、調理実習のクラスだけをピンポイントで受講するらしかった。
 今日は、パーティメニューということで、ローストポークを習うことになっている。あとは、子供も喜んで食べるポテトサラダと、おもてなし用のアボカドと海老のサラダだ。
 ポテトサラダは、定食屋の付け合わせや小鉢でよく出てくるし、市販の弁当にもよく入っている。スーパーなどでも簡単に買えるが、一から作ってみると、意外に面倒な料理だった。
 じゃがいもを皮ごと蒸し、玉葱を細切りにして、水にさらす。ゆで卵を作り、きゅうりを薄切りにして、塩もみする。蒸したじゃがいもの皮を熱いうちに剥いて、潰す。ここで、コップの底をラップで覆って、それで潰すというやり方を教わった。
 じゃがいものあら熱を取っている間に、きゅうりを絞り、玉葱の水気を切る。ゆで卵も潰して、細切りにしたハムと材料をすべて、マヨネーズやレモン汁、塩胡椒で和える。
 マヨネーズ多めの子供向けレシピと、水切りヨーグルトを使った、少し健康的なレシピとふたつ作る。
 こんなに細かい工程があるのに、メインディッシュにはならない。そういえば、母もよくポテトサラダを作ってくれたし、理央が好きだったから鈴菜もよく作っていた。
 自分で作るまでは、ささっと作れる家庭料理だとばかり思っていた。
 そういえば、酔って帰ってきて、冷蔵庫に残っていたポテトサラダを全部食べて、翌日、鈴菜に激怒されたことがあった。
 理央の幼稚園の弁当に入れるつもりだったと言われても、ぼくは彼女の怒りがあまりぴんとこず、口うるさいなあと思っていた。
 スーパーに行けば売っているものを手を掛けて作るのは、子供に少しでも健康的でおいしいものを食べてもらいたいという気持ちからだし、それを酔った状態で雑に食べ尽くされれば、腹が立つのも当然だと思う。
 過去の自分のひどい行動に、気分は落ち込むばかりだ。
 ローズマリーや根菜類と一緒に焼いたローストポークは、食欲をそそるいい匂いがした。
 切り分けて、皿に盛りつけ、それを和室に運ぶ。
 和室のテーブルで、白木は自然にぼくの隣に座った。

山の上の家事学校

Synopsisあらすじ

ゴミがたまってきた。布団もしばらく干してない。もう、こんな生活うんざりだ……。ある日、仕事から帰ってくると、妻と娘は家を出てしまっていた。すさんでいく生活を見かねた妹から紹介されたのは――家事を習いたい男性のための学校? そこには、様々な事情を抱える生徒たちが通っていた……。

Profile著者紹介

1969年大阪府生まれ。大阪芸術大学文芸学科卒業。93年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2008年『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞受賞。著書に「ビストロ・パ・マル」シリーズほか、『歌舞伎座の怪紳士』『たまごの旅人』『シャルロットのアルバイト』など。

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